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1.独立戦争
「…というわけでCSII療法において使用されることの多い超速攻型インスリンですが、今後亜鉛を含むものと含まないもの、二種類の選択が可能となります。それに伴って、効果の差別化を図るために臨床試験への参加を検討しているところです。」
各専門医が現在の治療状況および研究課程を発表する院内ミーティングで、糖尿病専門医を代表して大地が淀みなくレポートをしている。患者数の相変わらずの増加に加えて、先進的治療への積極的な取り組みが綺麗にアピールされている。これで何故代謝内科が出来ないのか、公平に見て理解に苦しむ。
鼻を鳴らさんばかりに不服気な顔で大地を見ている、ずんぐりとした梨田副部長を睨みつける。いつ見ても血色の悪い顔とその体躯とが相まって、陰では‟ひきがえる“と呼ばれている。一説では、単に大地の人気ぶりが気に食わなくて代謝グループの足を引っ張ってるという話だ。それを全くの嘘っぱちだと思えない陰湿さがこの副部長には確かにある。私だって密かに、なるべく接点を持たないようにしているもの。
神崎先生、と今度はジェントルマンで有名な消化器内科部長の横顔を窺う。もういい加減、代謝内科、糖尿病内科でもいいですから、作りましょうよ。院長に直訴して下さいよ。
あまりに熱心に見つめていたせいか、部長がふとこっちを見た。こぶしを握りしめて頷くと(心の中では直訴、直訴、とシュプレヒコール)、ふっと目元が柔らかくなって口角がわずかに上がった。でもそれだけで前に向き直ってしまう。この‟美麗たぬき”が。最初このあだ名を聞いた時は吹き出したけれど、でも確かに見た目も整っていて物腰も柔らかで言葉かけも適切なこの部長は、絶対に腹の底が読めない。
私の離婚の時も、陶也さんの再婚の時も、多忙極まりない中すぐに時間を取って温かく支えてくれた。信頼しているし、医者だけでなく病棟スタッフ各々の仕事がやりやすくなる絶妙な配慮はもはや部長にしか出来ない離れ業だろう。でもそれでも、この大所帯のトップにまで上り詰めた政治力というものが、実はこの人の真骨頂ではないかと思わせるところがそこここから漂ってくる。部長さえ、代謝内科に首肯してくれれば、大地は―。
大地は本当に転院を考えているのだろうか。16年間も働いたこの病院を出て行くのだろうか。
訊けない、怖くて。軽く頷かれたりしたら―そしてそれは何度も想像した大地の反応だった―私はきっとニッコリ笑う。そして良かったね、と言う。もしかしたら肩なんか叩いてしまうかもしれない。頑張ってね、本領発揮してね、とかどんどん口が勝手に動くはずだ。向こうで結婚しちゃうかもしれないね、運命の相手に会っちゃったりして。そんなことまで口走るに違いない。怖気づいて取り繕うのはもう習い性のようなものだ。どんなにそれを憎んでいても、もう自分の一部のようなものだから。
「本日のレポートは全て終了しました。何かご質問やご意見などありますか?」
司会の研修医が締めくくりに入った。
「はい。」
ざっと視線を浴びる。でも知ったこっちゃない。
「あ、え、と小笠原先生?」
滅多に質問したことのない私に、研修医が戸惑いをありありと示した。疑問符付きで。
「はい。質問を一つ宜しいでしょうか?」
部長が面白そうな顔でこっちを見て頷いた。
「有難うございます。今月の糖尿病グループのレポートですが、また患者数を伸ばしています。半年以上コンスタントに新規患者が増えているのは、DM関連のみです。研究業績も安定し、さらに新たな臨床研究を開始するとのこと。六名の先生方の論文業績も目覚ましいです。」
ここで息を深く吸った。さあ言うぞ。
「これだけの専門性と成果を誇るDMグループがなぜいまだに消化器内科の中にいるのでしょう?代謝内科を立ち上げて然るべきと考えられますが。」
途端に無音になった。へえ、水を打ったような静けさって本当にあるんだ。皆が動きを止めたように見える中、司会の研修医の口がポカンと開いている。その顔を見て笑い出したくなった。でもここで笑うわけにはいかない。そんなことをしたら台無しになってしまう。必死で太ももをつねる。
その沈黙を破ったのはやはりヒキガエルだった。わざとらしい咳払いを何回かしてから、
「小笠原先生、」
諭すような声を出している。
「まさか先生がこんな初歩的な質問をされるとは思いませんでしたよ。」
ご丁寧に首まで振っている。
「初歩的、ですか?」
「DMが扱うのは膵臓、つまり消化器ですよね。ですから消化器内科の中にいて然るべきです。」
「お言葉ですが、その理論で行きますと腎センターの設立はおかしいですよね。」
「腎は専門性が高い、病気も多岐に亘る。しかも透析機器を十分に置ける場所も必要だ。だから単なるDMと比較することは出来ません。」
「専門性が高い、というのはどういった基準のお言葉でしょうか?我々皆それぞれ高い専門性を保持するため日夜研鑽を積んでいると思うのですが。」
「それは揚げ足取り―」
「失礼しました。ですが今お聞きになった通り、患者数ではDMグループの抱える人数は腎センターと遜色ありません。それどころか今後、さらなる増加が予測されることは明白です。その患者さんたちに十分に対応できるだけのスペース・機器を確保し、 六名もいる専門医たちにDMに集中して治療成果および研究業績を上げてもらえば、うちの病院の看板にもなる。そうすれば増加する一方のDM患者たちをより取り入れることになり、病院経営の上でも利益になれこそすれ悪影響を及ぼすことはないと考えられるのですが。」
ヒキガエルの顔がだんだんと赤黒くなってきた。鼻の穴が膨らんでいるのが良く見える。
「DMだけ特別扱いは出来ないと言っているんです。」
「その理論的根拠をお訊きしているんですが。」
そろそろ皆がざわついてきたのが、発言している私にも聞こえ始めた。ということは、結構な人数が今なにがしかの言葉を発しているのだろう。
「他病院で容易に成立している代謝内科が、何故うちでは成立しないのか、その理由を伺いたいです。」
「うちにはうちの伝統がある。」
「伝統とは具体的に何でしょうか?」
とうとうざわめきの方が大きくなってきた。でもその騒音も、静かだけれど威厳のある声が響くと、あっという間におさまってしまった。
「小笠原先生、」
美麗たぬきが身体ごとこっちに向きを変えている。
「はい。」
「その件に関しては上層部に預からせて頂けませんか?」
こちらの方の疑問形は全く疑問の形をなしていない。決定事項だとその声音が告げている。
「差し出がましく申し訳ありませんでした。」
私の一言で、やれやれと皆が安堵したのが手にとるようにわかる。でも、残念でした。
「ですが、預かって頂いてそれからどうなるのか。保留されてしまうのか、きちんと検討して頂けるのか、どちらでしょうか?」
ヒイッという声があちらこちらから聞こえてくるようだ。
「小笠原先生、それは部長に対して失礼でしょう。」
ヒキガエルが口を出す。
「第一、一介の上級医ごときが―」
「梨田先生、」
たしなめるような部長の声がして、ヒキガエルが慌てて謝罪の言葉をぶつぶつ口にする。
「小笠原先生?」
「はい。」
「勿論前向きに検討します。」
そう言ってニッコリ笑う部長は本当に食えない医者だけれど、今はこれ以上押しても大地たちの利益にはならないに違いない。よし、今日はここまでとしよう。
「有難うございます、神崎部長。」
頭を軽く下げると、今度こそカンファ中の安堵のため息が聞こえて来た。顔色を失っていた司会の研修医が、ようやくホッとしたように他の質疑や意見の有無を訊き始め、ないとわかると弾んだような声でミーティングの閉会を告げた。
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