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手元の資料を束ねていると、
「小笠原先生、」
心に深く沁みとおる声が降ってきた。
目を上げようとした瞬間、
「科のミーティングに私情を挟むのは大概にして頂きたいですな。」
いまいましそうな声が別方向から投げられた。
「私情ですか?」
首を捻った私の前に、背の高い背中が立った。途端に視界が遮られてヒキガエルはおろか、大地の背中以外何も見えなくなる。
「お言葉ですが梨田先生、私情とはどういう意味ですか?」
熱くも冷たくもない普通の温度で大地が訊いている。冷静だ。
「ほほう、ここで上郡先生が出てくるのがまさにその良い証拠だと思いますがね。」
そっと大地の後ろから覗くと、ヒキガエルが背の高い大地を、首を限度まで伸ばして精一杯見上げながらほくそ笑んでいる。
「小笠原先生と君は特別に仲が良い。そんなのはうちの科では誰でも知ってることですよ。そういう破廉恥な情に流されて科を引っ掻き回すのは止めて頂きたいと抗議してるんです。公私混同も甚だしい。しかもいい歳した大人同士がみっともない。」
大地の背中に力が入るのが見えた。肩の線がわずかに盛り上がっている。ダメだよ大地、挑発に乗っちゃ。このヒキガエルは、なんであれマイナス材料を集めてるんだから、DMグループの足を引っ張る為に。こらえて。
「先生のご発言はコンプライアンス的にあまり宜しくないかと存じますが。」
良かった、相変わらず落ち着いた声のままだ。
「コンプライアンス?これはまたいかにも上郡先生的な。」
「私らしい?どういうことですか?」
「わからないですかねえ。いやはや。」
いい加減あっちへ行ってほしい。芝居がかって首を振っている姿を大地の背中越しに睨みつけた。
「君はスマート過ぎるんですよ、何においても。だから上層部から信用が得られない。その結果代謝内科なぞとてもじゃないが了承されない。そういうこと、はっきり言われないとわからないですかねえ。」
言うにことかいて。あんたも少しは大地を見習ってスマートのかけらでも習得しなさいよ。
「それはそれは、梨田先生から直々にお褒め頂いて光栄です。」
あ、これ、今きっと慇懃無礼に微笑んでるな。上にも下にも横にも好かれる大地だけれど、たまにそれを妬む人間がいる。大抵上の人間だ。そういう時に大地は特別な笑みを見せる。微笑まれているのに侮辱されているような気にさせられる微笑み。不思議な凄みがある。初めてそれを間近で見た時、ちょっと背筋がゾクッとした。この人は単に好青年なだけじゃない。
「誰も褒めてなんか―」
「そういう理由じゃないと私は思いますけどね、梨田先生。」
静かな声が割って入った。私も慌てて席を立つ。
「神崎先生、」
大地の声にわずかな緊張が走る。
「上郡先生、先生たちの頑張りは私を始めとして院長も十分理解しています。今ちょうど病院側の体力を計っているところでして。先程言いました通り、代謝内科、十分前向きに検討させてもらいますよ。」
ニッコリと微笑む美麗たぬきに、何故か深々とお辞儀をしてしまった。空気が揺れたような気がして顔を上げると、
「いつも静かな小笠原先生が腹に据えかねるとあっては、早急に対処しないといけませんしね。」
まるでウインクでもするような、或は一瞬本当にしていたか、そんな表情を送られて、はあ、まあ、とかモゴモゴ言ってしまう。
「それから梨田先生、」
権威に弱いヒキガエルが背筋を伸ばしてたぬきを見上げた。
「一介のとか、いい歳をしたとか、まして破廉恥はないでしょう。上郡君でなくてもコンプライアンス的にと言いたくなりますよ?」
「はっ、申し訳ありません。」
「部長として、同僚同士風通しよく働いてくれているのが一番嬉しいです。内分泌グループもそうであることを願ってますよ。」
「はい、それは勿論です。」
直立不動か、という姿勢でヒキガエルが何度も頷いている。
嘘つき。内分泌グループの仲の悪さはそれこそ部内では有名だ。だから「代謝内科」は可能性大としても、「内分泌内科」は殆どありえないレベルなのだ。
それだけ言うと、たぬきは私たち三人に平等に微笑みを振り向いて踵を返して行った。それに当てられたようにヒキガエルが一回りしぼんで向こうへ歩いて行った。
「ふうーっ。」
思わず息が漏れた。それを合図に大地が振り返った。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
「援護感謝です。」
そう言って大地のいつものスマイルが浮かんだ。にっこりと。辺り一面を照らすような、明るくて金色な。思わず前髪に手をやってしまった。
「援護だなんて、当然だよ。DMグループの働きは抜きんでてるもの。本当にいつも凄いなと思ってる。」
くすりと笑ってそのまま見つめられている。段々居心地が悪くなってついに口を開いた。
「えっと…何?」
「いや…さつきサン、俺がどれだけ嬉しかったかわかってるのかなあと思って。」
「え…」
頬が熱くなる。まずい、耳まで赤くなるまでにそう時間はかからない。何とかしなくちゃ。
「そんな。同僚として当たり前の意見を述べたまでです。」
「同僚ねえ、」
大地が顔を寄せてくる。ただでさえ背が高いのに、座っている私に合わせて背を屈めるから、まるでうわばみが獲物を狙っているかのようだ。うわばみって。それはまた我ながら例えがひどい。思わず苦笑してしまうと、
「何ですか?」
目が敏い大地にすぐに訊かれる。
「うん?いや、大地はうわばみみたいだなあって思って。」
「は?え、何、うわばみ?」
目を白黒させている。ちょっと可愛い。
「いや、こっちのことだから。」
会話を終わらせると、決して深追いしてこない大地はクックッと笑ったまま傍に立っている。
「今日の御礼に食事、ご馳走させて下さい。」
そのまま愉快そうな声が降ってきた。
「えっ、いいよ、そんな。」
もう習い性とさえ言える‟まず否定”。
「いえいえ、ここは是非。来週あたりスケジュールが合う時を見つけましょう。」
そう言うと大地はにっこり笑ってカンファレンスルームから出て行ってしまった。呆然としてその後ろ姿を見送る。
食事?ディナー?大地と二人?
そこまで考えて頭が飽和状態になった。頬が熱くなってもきた。どうしよう。何だか特別な気持ちになり始めている。
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