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2.バレンタイン前夜
「バッ、」
PCの前で思わず声が出た。バレンタインデー?発表されたばかりの二月の勤務スケジュールを見た途端に。その日はよりによって二人とも日勤で翌日の土曜日は、私がオンコールで大地は休みだった。PCの画面に影が差すのと甘い香りが肩先に舞い降りるのとがほぼ同時だった。ああ、またか。
「さつき先生、その日日勤なんですかぁ?あ、上郡先生もだ。」
だから何でそこ。
「黛先生だってそうじゃないの?」
なるべく静かに言い返したのに、
「わったしですかあ?何と明けなんですよねーっ。うっれしいなー。早く上がって思いっきりお洒落して出かけられるんですよぉ。」
正反対の語尾にハートがつく勢いでまくし立てられた。
「それは良かったわね、イブは当直だったものね。」
こっちはどんどん声が小さくなっていく。
「んもう、思い出させないで下さいよー。ほんっと散々だったんですからぁ。」
頬を膨らませている。その顔をしげしげと見ながら、最後にこんな顔をしたのは何時だったろうと思いつつ、興味半分で質問を重ねた。
「確か救急の由良先生と何かあるって言ってなかったっけ、イブ?」
私、意地が悪いなあ。
「あー、それ大昔ですって。」
今度は口を尖らせている。この表情も…と思い始めて止めた。年齢が、とかでなく、土台黛と私とでは性格が違い過ぎるのだ。
「由良先生、何だか本気な人がいるらしいんですよ。ま、噂なんですけど。でもあの先生、今までとっかえひっかえって感じだったんですけど、何か落ち着いちゃって。つまんないって言うか、あの人もただの男だったって言うか。」
「それ何よりじゃないの?やっとこの人だって言う人に出会えたってことじゃない。」
ふうーっ、と大げさについた溜息を吹きかけられた。
「さつき先生って、やっぱり純粋って言うかお嬢さんって言うか。夢見がち?」
首まで振られている。
「は、私が?」
「良いんですかね、いつまでもそれで…」
「黛先生、」
もっと高い所から声が降ってきた。途端に黛が今度は空中にハートをまき散らしながら振り向いた。これもイブの時と一緒だ。
「はい。」
黛、あんた目が五倍くらい大きくなってるよ。しっぽ振るのお止め。お座り、お座りって。
「上島師長が小川さんの検査オーダーの件で訊きたいことがあるらしいですよ。」
「うげっ。」
「黛先生っ。」
注意を飛ばせば、さっきまでとは打って変わって首をすくめた亀になった黛が、哀れっぽそうに大地を見上げている。その大地は素知らぬふりだ。諦めたらしい声が今度はこっちに向かってきた。
「さつき先生ぃ、」
「何でしょう?」
「私苦手なんですよ、師長。何もしてないのにあの大きな目で見られると謝りたくなっちゃうし。頭が真っ白になっちゃうし。」
「何もしてないなら堂々としていればいいでしょう。」
急に手を取られる。
「一緒に行ってもらえませんかぁ?さつき先生がそばにいたら私きちんと説明出来そうなんで。」
今度はこっちが盛大に溜息をつく番だ。
「黛先生、なに一年目の四月みたいなこと言ってんの?いい加減四年目の貫禄出しなさい。」
「ええーっ、殺生な。」
「黛先生、」
一瞬にして辺りを凍らせるような我が親友の冷ややかな声が聞こえて来た。
「ひいっ。」
私の影に隠れるようにしている黛を絵梨花の方へと押し出す。
「どうぞ、ここにいますよ。何なりとお訊き下さい。」
刑事と容疑者のような体で歩いて行く後ろ姿をやれやれと見送ると、大地が途端にクックッと愉快そうな笑い声を立てた。見上げると、
「眉間に皺、くせになりますよ。」
と朗らかに注意される。
「少しは助けて下さい。」
「助けましたけど?」
「どうだか。」
全く腹立たしいことに、私の少しぐらいの不機嫌じゃ大地は何もこたえない。それを百も承知で歯ぎしりしたくなる。
「それより、バレンタインデーで決まりですね、食事。」
やっぱりそれがメインだったか、わざわざPCの前に来たのは。
「ええっと、」
「何か問題でも?」
「あー、と…私の方は大丈夫なんだけど、何て言うか―」
「はい。」
「前がイブだったし、」
「はい。」
「今度は14日って、」
「はい。」
面白そうに目が光っている。ああ手に負えない。
「…」
「何が言いたいんです?」
「いや…何か申し訳ないって言うか。」
「は?」
「その二大イベントを潰してしまうのが。」
「潰す?」
「ええ…」
「要するにイブも潰したってことですか?」
「え、いや、私じゃなくて、」
「じゃあ俺が潰したんですか?」
何だか話がこんがらがってきた。
「え、と、そうじゃなくて。上郡先生じゃなくて。」
「話しが全く見えませんが。」
とうとう机に軽く腰を載せてしまった大地を途方に暮れて見つめる。
「…ですよね、すみません、自分でも何が何だか。」
「普段明晰な小笠原先生がしどろもどろになるのを見るのは、それはそれで一興ですが、」
もう一度顔を覗き込まれる。だから頼むって。そのキラキラぶりを今ここで発揮しないで。
「俺自身は結構はっきりさせたいタイプなんで、二択でお願いします。俺とバレンタイン、食事に行きますか?行きませんか?簡単ですよ、さあ答えて下さい。」
明るく凄むって何?気付いたら目をつぶって口を動かしていた。
「い、行きます。」
「まあ言わせた感ハンパないですけど、この際知ったこっちゃないって言うか。じゃあ良いですね、14日。店選んで連絡します。」
そう言うとあっさりと大地は立ち上がっていなくなった。ようやく落ち着いた胸に手をやった。
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