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3.St. Valentine's Day
2月14日。
一応小さなチョコレートケーキを用意した。自分でも随分気に入っているレシピの。たっぷりとあんずジャムを挟んだ濃厚なケーキをこっそりとロッカーにしまっておく。イブの大地のように医局の冷蔵庫に入れるなんて大胆な真似は、逆立ちしたって私には出来っこないから。
当直だったとは思えないほどウキウキした黛の「お先に失礼しまーす」の声で、やっぱり今日はバレンタインだったと改めて思う。大地からは今日の7時半に病院正面玄関でとメールが来ていた。メール。まるで業務連絡のようだと思い、勝手にちょっとがっかりしている。最低限の勇気さえ持たないくせに期待だけは一丁前だ。自嘲しながらステーションを通り過ぎた時、親友の姿が目に入った。絵梨花は小作りだけど全体にキュッとして整っている。常にきりっとして乱れない。メイクも身だしなみも文句のつけようがない。でも…ちょっとひっかかって目を凝らした。やっぱり。「きちんとしてます」感が浮いている。無駄に張りつめている。何かあったのかな?あるとしたら由良先生だな。何だろう。このところ絵梨花の雰囲気がふうわりと和らいでいたのに、とっても素敵だったのに。
「小笠原先生―」
すぐに廊下の先から声がかかって、私は朝イチの処置を約束していた患者さんの病室へと急いだ。
結局気に懸かったまま絵梨花とはすれ違いで、病棟を出る間際に覗いたステーションにはもうその姿は無かった。お昼に一瞬お誕生日おめでとうと言えたものの、その後は検査・処置・面談・記録に追いまくられて、絵梨花を探すことはおろか、なかなかステーションにさえ立ち寄れなかった。
「心配だなあ。」
思わず声が出る。ローションを軽く塗りこんで、パウダリーのファンデーションを叩きこみながら。手は勝手に目の下のクマにコンシーラーを重ね、目周りにハイライトを散らす。
―あんた、お肌は綺麗なんだから、もうちょっとメイクの方、頑張んなね―
そう言いながら時々新色のシャドウやリップのレクチャーをしてくれる、そんな絵梨花の香水が漂った気がした。一体どうしたんだろう?今日はてっきり由良先生とお祝いだと思ったのに。
鏡の照明では余計に青白さが目立つような気がしてチークを一刷毛する。うーん、もう一回かな。血色がよくなると今度は目元のショボさも気になり、マスカラを重ねる。ラベンダーの香りの霧をまいて終了。鏡の中の私が緊張した面持ちで見つめ返してきた。
「お待たせ。」
見慣れたトップグレーではなくネイビーのコートの背中に声をかける。すっきりとした立ち姿。それは中学の時から変わらない。
「全然待ってませんよ。」
そう言ってニッコリ微笑みかけられただけでこの心拍だ。全くもって今夜が不安。
「どうかしましたか?」
驚いて見上げると、眉間を人差し指で軽く叩いていた。
「ここ、皺寄ってるから。」
そんな仕草さえきっと後々まで思い出してしまう。慌ててかぶりを振りながらそんなことを思った。
「うん、」
自動ドアを抜けて静かな二月の夜に足を踏み出しながら、気付けば口が動いていた。
「ちょっと気に懸かるの。絵梨花が元気ないみたいで。」
「上島さん?」
「うん。今日お誕生日なの。だから絶対由良先生とお祝いだろうと思ってウキウキしてるー」
ブッと吹き出す音が聞こえて驚いて見上げれば、大地がこぶしを口に当てておかしそうに笑っている。
「え、何?」
我ながら不興気な声音になった。
「あ、いやすみません。ただ上島さんがウキウキって、物凄い違和感で。」
言いながらまだ笑っている。
「もうっ、絵梨花だって好きな人と一緒ならウキウキするんだって。」
気付けば口を尖らせていてギョッとした。黛か。
「いや、ほんとすみません。」
ようやく笑いの波がおさまったようで、
「俺、研修医時代しごかれましたからね、上島さんには。なんなら医局の先輩たちよりも。」
「ああ…うん、確かに、『上郡先生っ』っていう絵梨花の声はすぐ思い出せる。」
「ですよね。」
「でも大地は吸収力が凄いし、努力がともかくハンパなかったって言ってたよ?上郡先生は明るく伸びて行ったって。私だって、オーダー出しちゃあ、何でか知らないけど絵梨花に見てもらったりしてたもん。上の先生から上島チェックいれといてって言われて。」
「ああ、‟上島チェック”。懐かしいなあ。」
「だよねえ、私なんて年は同じだからたった二年先輩なだけなのに。最初はちょっとムッとすることもあったけど、でも指示が的確だし丁寧に教えてくれるから有難くて、チェック受けるの楽しみにさえなったもんなあ。」
「げ、俺その境地には達しませんでしたよ。でも、うん、確かに上島さんから学ぶことは沢山ありました。」
「でもそれで由良先生が絵梨花に惚れたらしいの。」
「え、マジですか?」
「うん。絵梨花、あんまり詳しく話してくれないんだけど、『私が叱ったからうっかり思い出になっちゃったらしい』って。」
「それ、上島さんらしいですね。」
「だよね、私もさっきの大地みたいに聞いた時吹いちゃった。」
「でもそれで惹かれるなんて、さすが 由良は強者だな。」
そう言って冬空を仰ぐ横顔を見つめた。こうして横を歩くのも今日の答えいかんではもうなくなってしまうのかな。
「何ですか?」
気付けば大地は夜空ではなく私を見下ろしていた。
「あ…え、と…そう、そうなの、だから絵梨花が心配で。」
誤魔化したわけではないのに、またか、と自責の念が湧き上がる。結局私はこの人の前では思っていることの半分しか言葉に出来ない。
「確かにバレンタインですしね。」
「でしょ?お誕生日だけじゃなくて。」
「どうしますか?由良に直接訊いてみます?」
言うなり携帯を取り出してスクロールし始めたから焦った。
「いや大丈夫っていうか、何訊いて良いのかわからないし。」
「‟絵梨花と何かあったの?”でどうです?」
もともと明るいテノールの声がさらに高くなって、そのイントネーションといい私としか言いようがない。思わず吹き出した。そんな私を面白そうに見たまま携帯を今にもタップしようとしている。
「ダメだって。そんなこと口出すことじゃないし。訊くなら相手はまず絵梨花だし。」
慌てたまま飛びついて携帯を奪った。何も考えていなかったから盛大によろけて、おっと、という声と共に両肩が支えられた。マリンノートが立ち上る目の前の艶やかなコートに鼻を突っ込みそうになる。
「ご、ごめん。」
後ろに飛びのくと、
「フットワーク軽いですね。さすがエース。」
余裕の声が耳に入ってくる、入ってくるのだけれどこっちはそれどころじゃない。両肩から体中に熱が広がってくるし、鼻腔は大地の香りでいっぱいだ。
「さつきサン?」
怪訝そうに問われているから、きっとまた私は挙動不審になっているのだろう。大地の前だといつもそうなるように。
「大丈夫ですか?」
何だかいつも同じことを訊かれている気がする。
「大丈夫っ、大丈夫です。」
おかしなほど勢いをつけて言えば、大地の口角が上がるのが見える。
「由良、どうしますか?」
「かけない、かけません。」
ブンブンと音がするほど首を振った。
「ん、じゃあ返してもらっていいですかね、俺の携帯。」
そう言って差し出してくる手を見て、まだ自分が大地の携帯を握りしめているのに気付いた。カバーも何もついていない銀色のむき出しの携帯を。
「ごめんなさい。はい、どうぞ。」
両手で渡すと、
「はい、有難うございます。」
陽気に節をつけてさらりと受け取ってポケットにしまった。常に上機嫌で乱れることなんて見たことのないこの人は、いつものように何事にも余裕がある。
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