3.St. Valentine's Day

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「え?まさかうち?」 渋谷駅で東横線にいざなわれた時、思わず声が出てしまった。かの人と大違いな私は動揺ばかりしていてすぐに声が出てしまう。 「な訳あるはずがないでしょう。」 またもやおかしそうに見下ろされているのが気配でわかる。 「…ですよね。でもここ帰り道だし。」 「まあ確かに。このまま実家にでもご招待したい気も。」 「ええっ?」 「違いますって。さつきサン、こんなに驚く人でしたっけ?」 とうとうクックッといつもの笑い声が聞こえて来た。 「じゃあどこに行くの?」 恥ずかしいせいでムッとした声が出てしまった。 「中目黒ですよ。目黒川の方にちょっと歩きますけど。」 隣の駅で育ったくせに、中目黒は何だか敷居が高いような気がしてあまり来ることもないから、そう言われてもどっちの方向だとかは全然わからない。 「よく行くの、中目?」 「んー、花見には何回か。あとは今日行く店が結構好きなんで、でもそれくらいですかね。」 訊くんじゃなかった。大地の行動の向こう側には数々のデートシーンが透けて見える。 「イタリアンだよね?」 Zanettiという名前を教えてもらっていた。 「はい、美味しいですよ。うちの家族でよく行ったもんです。」 え、家族で?デートじゃないの? 「さつきサン、それ心の声っていうやつですか?」 どうにか笑わずに済ませようとする心意気を感じさせる声が発せられる。 「え、なに?うそ、聞こえてたのっ?」 「はい。わりとはっきり。」 恥ずかしいにもほどがある。もう黙ろう。何を言っても言わなくても隣の人には笑われてしまうから。駅を出て、二月の夜に深く沈む川を見ながら少し歩いた所に、真っ白な壁に温かみのある茶色のドアが見えた。金色のプレートにZanettiと小さく彫ってあった。ここに上郡家の皆が来ていたんだ。よく知っているおじさんやおばさん、それに空も。大地にはピッタリに見えるこのお店だけれど空にはどうなんだろう?ぶっきらぼうな顔を思い浮かべる。感慨深く立ち止まっていると、 「入りますよ。」 促されて中に入る。 後から入ってきた大地を見て、レセプショニストが微笑んで声をかけた。 「いらっしゃいませ、上郡様。お待ちしておりました。」 「お久しぶりです。」 いかにも常連といった挨拶が交わされている。そんな大地を見ながら、温かな光と美味しそうな匂いに満ちた空間に徐々に気持ちがほぐれていく。 案内されたのは二階の大きなガラス窓沿いの席だった。窓の外にライトアップされて見える木立はきっと桜並木だ。春にはこの席は特等席だなあ。そんなことを思っていると、大地が、 「いつもはそこの四人掛けによく座ってました。」 隣の大きなテーブル席を指さしている。 「そうなんだ。素敵だね。それにとっても美味しそう。」 気付けば鼻をひくつかせていた。 「お腹減ってますか?」 「うん、ものすごく。」 「それは良かったです。」 何だかワインリストに隠れて笑っているように思えるのだけど? 「飲みますよね?まずは泡で乾杯しますか。」 「うん、そうしよう。プロセッコって本当にお祝い気分になるもの。」 どうして私はこう美味しそうな空間に来ると突然饒舌になるのか。ウキウキしすぎだろうが。 「俄然元気になりましたね。」 案の定、目の敏い大地に指摘されている。 「良いじゃないですか。それでこそさつきサンです。」 訳の分からないフォローをされて照れてしまう。きっとこの人は私が今照れたのだって気付いている。何もかも気付かれているような気がするけれど、私の大地への想いはどうなんだろう?もう何十年も見続けている目の前の人を見つめる。明るくて端正で大好きな顔を。空気が揺れて大地が密やかに笑った。 「?」 「さつきサンは―」 そこでプロセッコのグラスが二つ運ばれてきた。柔らかな日の光のような滑らかな液体。 「何に乾杯しましょうか。ハッピーバレンタイン?いや何かそれ微妙にバカっぽいですよね。」 大地の言葉に笑ってしまう。 「うん、何でかね。じゃあただバレンタインに乾杯、でどう?」 「そうですね。そうしましょう。じゃあバレンタインに。」 「バレンタインに。」 ほんの一秒くらいお互いの目を見合ってからプロセッコを口に含んだ。強すぎない炭酸が喉に心地よい。 「美味しい。」 満足げな声が漏れた。 「良かったです。どんどん飲んで食べましょう。」 「それ何だか盗賊みたいよ。」 「ブレーメンの音楽隊とかですかね。」 「うん、あとアリババとか。」 「すごい骨付き肉とかかぶりつくやつ。」 「そう。あれ子どもの頃、心底憧れたなあ。本当に美味しそうで。」 絵本に必ず書いてあったぷっくりした骨付き肉。突然のなつかしさに自分でも驚く。 「何か、やっぱり歳取っちゃったな。」 「は?」 驚いた声をして大地がグラスを口から離した。 「骨付き肉とか絵本読んでた頃だよね。30年以上、いや私の場合だと40年以上昔って思うと、年月が経ったよね。自分の中じゃ全然変わってないつもりなんだけど。」 「いや、俺さすがに三歳の時よりは成長したと思いますよ?」 真顔で言うのがおかしくて吹き出した。 「三歳の大地って、それはさすがに私も知らないな。」 「幼稚園は別でしたもんね。」 「うん、でもチョコの武勇伝は聞いてるくらいだから、見てたりとか、もしかしたらしたのかも。」 「俺が覚えてるのは小学校四年くらいのさつきサンですかね。ピカピカの一年生の俺からしたらすっげえお姉さんに見えたんで。」 「あらそれは有難う。」 「兄貴もものすごく大人に見えたし。」 「ああ…悪ガキで有名だったしね。多分小学校の先生たち全員知ってたんじゃない?」 「かもですね。俺も小学校時代は、歴代の担任たちから何度も『お兄ちゃんみたいになるな』って言われたのを覚えています。」 小学校の話が出来るなんて、それはそれで尊いことだろう、嬉しくもある。でも、今夜、私はそれから何十年も経った“これから”のことを訊かなくてはならない。 「あの、今日なんですけどバレンタインということでプレフィクスになってて、お任せコースらしいんですけど良いですか?」 遠慮がちに言う大地に、 「うん、嬉しい。却ってワクワクするし。」 と喜んだ。大地がピノグリッジオの辛口を追加して、私たちは次から次へと運ばれる北イタリア料理を堪能した。新鮮な冬の魚のカルパッチョや、白菜のポタージュ(白菜がポタージュになるなんて知らなかった。家でも試してみよう)、おまけに大好きなパスタが二種類も選べた。ああ、アグリオーリオ食べたいなあ。でもニンニクだし。やっぱりここはパスするべきか。悩んでいたらふいに名前を呼ばれた。 「さつきサン、」 「はい。」 「ニンニク問題どうします?」 「問題?」 「はい。」 わざとしかつめらしくしている顔にまたもや吹き出した。今日の私はよく笑う。自分でもそう思うくらいだから大地もきっと気付いているだろう。 「私も今このサルシッチャとズッキーニのアグリオーリオで悩んだ。」 「ですよね。この季節にここに来るとこれ必ずうちの皆が注文するんですよ。味は保証します。でも俺だけニンニク臭くなるのは避けたいし。」 「私だって。じゃあ二人とも注文しようよ。ね?」 「よしきた。」 腕まくりしそうな勢いにまた笑ってしまった。 「ねえメインはもしかしてT-ボーン?」 「じゃないですかね。フィレンツェだし。」 「うわ、骨付き肉。」 「期せずして。」 そんな会話でさえ、私には特別になる。大地がする全てが私には特別。 「骨付き肉にはやっぱりキアンティでどうですか?」 「だよね。盗賊だってガブガブ赤い液体飲んでるもんね。」 クスクス笑って答える私はもう十分美味しいお料理とワインで満たされていて、とてもとても幸せだ。
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