3.St. Valentine's Day

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「ああ美味しかった。」 お腹を撫でながら言うと(盗賊気分で)、 「良かったです、楽しんで頂けて。」 と大地が微笑む。本当にこの人は抜けがない。相手を心地よくする術を完璧に身につけている。 “呼吸をするように女を誉める”。また思った。 「あ、そうだ、私ちょっとだけどケーキ作ったの、持ってきてるんだ。それ荷物になっちゃうけど持って帰ってもらえるかな?」 「え、俺にですか?」 「勿論。大地以外に誰がいるって言うの。」 そう答えた私はもしかしてフワフワしていたのかもしれない。あっという間に大地に問い返されて息が詰まりそうになった。 「バレンタインに、さつきサンには俺以外誰もいないってことですか?」 言葉尻を隙なく捉えられている。 「え、あ…何かそう言う風に言われると、」 「言われると何です?」 さっきまでゆったりした湖の上で心地よかったはずなのに、今は荒波がもうすぐ迫ってきているしけの海で揉まれ始めている。恋愛という大しけの海で。 「あの、大地は今日も沢山チョコレート貰ったでしょ?」 くだらない切り返しに一瞬不興気に眉が顰められたけれど、またいつもの大地らしい落ち着いた顔つきになる。 「まあ。でも義理ですよ、義理。」 そんな風にサラリと、この人は一体もうどのくらいの間流してきたんだろう。目立ち、好かれ、当たり前のように人を誉め、妬みやそねみを明るくいなして。中高では重ならなかった部活だけれど、大学では練習中の激しさや試合での気迫を何度も見た。それでこの人の陽気さの底にある自分への厳しさというものを知った。自己を律することが出来るからこそ、太陽のような明るさを保ち続けられるのだろう。 「大地は謙虚だよね。」 「は?」 「そう思う。ものすごく好かれるのに全然驕らない、昔っから。他人からの好意の話だけじゃなくて。そうじゃなくて、元から備わってた才能のように見えるほど陰で努力するし。」 常日頃思っていたことを頭の中で辿って口にしていた。 「だから巡り巡ってまた好かれるんだよね。」 べらべら喋ったせいか喉が渇いて、キアンティに口をつける。深くてルビー色の美しい液体に。目を閉じてその馥郁とした香りを楽しんでいたら、溜息が聞こえてきて慌ててグラスを下ろした。 「え、どうかした?」 「まあ今に始まったことじゃないんですが、」 そこまで言って今度は大地がグラスを持ち上げた。訳がわからずぼうっと、相変わらず長い大地の指を眺めている。しばらくしてようやくグラスが置かれた。 大地が口を開いた時、 「失礼ですが、デザートをお持ちしてもよろしいでしょうか?お飲み物はどうされますか。コーヒー、紅茶、ハーブティーなどございますが。」 後ろから声がかかった。このレストランはサービスも抜群で、無駄に存在を感じさせないのに、必要なことはすっと差し出される。大地は落ち着いて、 「さつきサン、どうしますか?俺はブラックで。」 と答えている。何か言おうとしていた様子なのに。 「あ、私はハーブティーで。」 「カモミール、ミントのご用意がありますが。」 「ではミントでお願いします。」 キアンティで少々膜のかかったような頭に、すっきりとした風を送り込みたい。 「デザートって何だろう?お腹入るかな。」 「チョコじゃないですかね、バレンタインだから。」 そんな言葉を交わした。でも大地が言いたかった続きが何なのか知りたい気がする。 「あの、さっき何か言いかけたでしょ?今に始まったことじゃないって。話の流れからすると、私、失礼なこと言っちゃったかな。多少酔っぱらってるかもしれないし。でも今に始まったことじゃないってことからすると、もう随分長い間大地に失礼なこと、してるのかな?」 え?なに、もう一度 溜息なの?大地ってこんなに溜息ついたことあったっけ? 「あ、ごめん、やっぱり…気付いてないって、私最悪だね。」 いたたまれずにグラスを掴んで残りを一気に流し込んだ。どうしよう。何に大地は失望してるんだろう。 「あのね、大地―」 「さつきサン、」 強い口調で遮られた。 「はい。」 「頼むから同じ土俵に立ってもらえませんかね。」 「は、え?」 「年上的な分析とか、過剰な遠慮とか。距離を取ろう取ろうとしますよね。あ、‟適正な距離”でしたっけ、クリスマスの。」 いきなり胸を刺されたように息が出来なくなる。あれ以来お互いにイブのことを口したことなんかなかった。だからもう無かったことのように、あの重くて苦い気持ちをしまい込んでいたのに。心の奥の奥に。 「…」 「同じレベルで向き合ってもらえないと、出来る話も出来ないです。」 そう短く言うと大地もグラスを空にした。 すいっとウエイターが近寄ってきて、二人のグラスに同じずつキアンティを注いでボトルが終わった。無言のまま、お互いにワインを飲む。どうしよう、大地が無言だなんて。でも同じレベルになんか、同じ目線になんか立てやしないよ。そんなことしたら、何で私みたいなのが大地の時間を分けてもらってるのか、みじめになるだけだもん。平凡でとりたてて目立つ美点もない私が、いるだけで視線を集める大地に向き合うなんて。だから幼馴染ぶる、姉ぶる。せめてそうしておけば言い訳が立つもの、大地のそばにいることの。 「…同じレベルになんかなれっこない。」 「は、何で?」 「大地は大地だし、私は…私だもの。」 そこで空気が動いて、コーヒーとミントティーが運ばれてきた。 「こちらセミフレッドになります。」 そう言ってハート形のチョコアイスのようなものに真っ赤なソースがかかった小ぶりのデザートが置かれた。お皿の淵に金色で“St. Valentine”と品よく書かれていた。お店の表札と同じ落ち着いた金色で。締めくくりとしてはこれ以上ない美しさだ。 「さつきサン、」 なのにまるで目の前に何も置かれていないかのように身を乗り出した大地に、また強く名前を呼ばれる。 「うん。」 「それでいいんですか?さつきサンはそれで。いつまで経っても俺は俺で、あなたはあなたで。」 いいって。だってそれしかないでしょう。それすら失くしたら私に残るものなんて何もなくなるもの。なのに思っていることの半分も言えない私はただ黙って俯くしか出来ない。 「やっぱり、」 自嘲した声音が聞こえてきて驚いた。あまりにも大地に似つかわしくない。慌てて顔を見上げると、珍しく口の端をゆがめていた。 「黙るんですよね、いつも。結局どこにも行きつけない。何年経っても同じことの繰り返しで。」 吐き捨てるように言うと、後は無言でコーヒーをすすりデザートを食べ始めた。 いつも優しくて温かな大地を怒らせている。でも何も言えないし、そもそも何が言いたかったのかも。もうわからない。目の端に涙が滲み始める。このままだと涙が落ちてしまう。慌ててティーカップを掴んだ。ここになら落ちても目立たないから。一瞬後に薄黄色の小さな水面に雨が降り始めた。鼻が、ミントの香りでなのかそれとも涙のせいなのかわからないけれど、ツンとする。でも泣き続けるわけにはいかない。こんなところで。大地の前で。泣くならいつものように自分の部屋でだ。 「ごめん、何かミントが沁みちゃって。」 声が震えないようにお腹に力を込めた。ちらりと視線を寄越されたようだったけれど、バッグからハンカチを出して目と鼻を押さえる。それから冷たいデザートを口に含んだ。喉が冷えて落ち着く。良かった、泣きながら食べられるもので。そのまま、本当に静寂のうちにディナーが終わった。あんなに楽しい出だしだったのに。美味しかったのに。 大地が会計を済ませてくれている間にトイレに向かった。個室に入ると、泣きたい気持ちが込み上げてきたけれど奥歯を噛みしめて耐える。大丈夫。こんなところでは泣かない。もう一度心の中で繰り返して洗面台に立った。鏡を見ると目が少し赤いものの、恐れていたほどではなくホッとした。これだったら普段の顔と大差ない。軽く水をかけて深呼吸した。大丈夫。トイレを出て出口に向かう。大地のすっきりとした立ち姿に心臓が一拍飛ぶ。どれくらい時間が経っても、私は大地を見つける度に何度でも胸が苦しくなる。
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