あたえつづけること。『おおきな木』より

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あたえつづけること。『おおきな木』より

 絵本を多く手に取るうちに、これは子どものために書かれたのか、それとも絵本という形式を持った大人向けのものなのか迷うものが出てきます。  暗示のようなものが潜んでいる絵本は、特に。  たとえそれが大人にならないと理解できないような内容だからと言って、それが子どもには早すぎるもしくは毒だと取り除くべきではなく、その時の感受性でページをめくり、いつか時が経ってからあれはそういうことだったのだと思い出して、考えてほしい。  そう思います。  そのようなわけで、今回紹介する本はこちらです。  『おおきな木』   シェル・シルヴァンスタイン作   ほんだきいちろう訳   篠崎書林   (新版は、村上春樹訳のようです)  絵が大きく、文字は少なく。  一見、シンプルな絵本です。  しかし、奥が深い。  あらすじは以下の通りです。  ちいさな男の子とおおきなりんごの木はなかよし。  毎日毎日、男の子はりんごの木と遊んだ。  だけど、時間がたつにつれ、男の子は少年になり、少年は青年になり、青年は・・・。  遊び相手で十分だった子供が育つにつれだんだん欲を持つようになり、さまざまな頼みごとをする。  それに対して惜しみない愛を与え続ける木。  そして、ふたりのさいごは。  この絵本の最後に訳の本田錦一郎さんのあとがきがあり、それが大変興味深い補足説明になっています。  まずシルヴァンスタイン自身、この絵本がこんなに反響を呼ぶとは思わなかったとのこと。  まさか、思うままに書いた物語が人々の中で色々な解釈や論争を巻き起こすとは。  子どもは素直にりんごの木と人間がどんどん年を取っていく話だと思うでしょう。  しかし、私を含めた大人たちは大変面倒な生き物で、そのシンプルな文章の端々から何かを想像せずにはいられないのです。  りんごの木の行為は『犠牲』の上に成り立つ『愛』なのか。  与え続けることは、『愛』なのか。  そして、『無償の愛』という名の自己満足ではないか。  さらには、りんごの木の『甘やかし続ける愛』が、男の子を駄目な大人に仕上げていったのではないか。  他にもおそらく議論はあるかと思いますが、このあたりで。    りんごの木は、私の中ではやはり『母親』の一面を持っているような気がします。  何があっても、持てる限りの力でわが子を守りたいと思ってしまう。  いや、言葉も理論も何もなく、ただ本能なのかもしれません。  こどもがしあわせならば、それでじぶんはしあわせ。  本文で繰り返し出てくる一節があります。   『きは それで うれしかった』(本田錦一郎版 原文引用)  全く顔を見せなくなった男の子が、ある日ふらりとやってきては己の現状の不満をなぜか木にぶつける。  木は久しぶりに会えてとてもとても喜んでいるのに、それは置き去りのまま。  それでも、木は持てる限りの知恵を振り絞って解決策を提案し、そして差し出す。  木の犠牲の上に成り立つそれを根こそぎ持ちだしておきながら、男は用が済んだら礼の一つも言わずに足早に去っていく。  それでも。   『きは それで うれしかった』(原文引用)  この絵本を親に買ってもらった当初はとても綺麗な作品と思い、本棚に納めました。  しかしちょっと大人になってからは正直、駄目男の製造過程を見るようだと感じ始め、奥の方へと移動させていきました。  そして、十分大人になってしまった今。  これは、どうにもできない心のありようなのだと思うようになりました。  奥が深すぎて、私ごときでは語れない題材なのではとも。  仮定ではありますが、りんごの木の愛を母性として語るならば、お手上げです。  私は毎日をぼんやり過ごしたまま今に至るので、子供を産む立場または育てる立場についてどうしても理解の届かないところがあると、常々思っています。  仕事で子供と接する機会がありますがそれはほんの短い時間のことで、所詮はよそのお子さんです。  24時間365日親であり続ける苦労と楽しみは日常のこと。  こればかり、経験しないとわからないことでしょう。  だけど、色々な人々に出会って話をしていると子供の側から見た親、そして親としての想いなどを少し知ることはできます。  大人になって一番良かったと思うのは、母の気持ちを割と冷静に受け取ることができるようなったことでしょうか。  今となってはたいしたことはないのですが、兄と私に対しての母の態度の違いが顕著で子供の頃は不思議で悔しい思いもしました。  今の言葉で言うならば、軽い兄妹格差。  しかし母が私たちを産んだ頃の歳を過ぎ、子育て世代の友人たちとやり取りをしているうちに、ああ母は若かったんだな必死だったんだな、と思うようになりました。  当時は父も若く仕事三昧でワンオペ状態。  なら、仕方ないかと。  自分だったら、たぶんもっと混乱していたし投げだしたかもしれないと。  母は兄を流産しかけて、冬の寒い日に早産しました。  生まれた子はとても小さくて。  いつ命が消えてしまうかと怖かったそうです。  そしてなかなか身体が大きくならなかった。  ちっとも眠らないし、ちっとも食べない。  なので、毎日必死だったと。  そして、今も言います。  「私は、あの子が元気でいてくれるだけで、うれしいの」  『あの子』はもうとっくに良い歳になり、素敵な妻と可愛い子供二人と暮らす父親で、きちんと働く大人へ成長していますが。  でも、母の中ではちいさなちいさな男の子のままなのです。  彼女の言葉は、りんごの木のそれに重なりました。   『きは それで うれしかった』(原文引用)  母の本音を聞いた瞬間、子どもの頃に感じたもろもろも、まあ、もういいかと思ったのです。  私も母の立場なら、同じ思いで日々を過ごしただろうから。  それに世間を知るにつれ、母なりに私のことも一生懸命に育ててくれたのだとわかりました。  当時の私はその必死さが全く理解できずけっこう思春期をこじらせましたが、それもまあ糧になった・・・かな。  母は本と出会う機会をたくさん与えてくれました。  今の私にとってそれは、かけがえのない財産です。  おかげで、子供時代に読んだ本とこうして何度も向き合うことができます。  あの頃の私と、今の私。  同じ文章をたどっているのに、見方は全く違う。  なら、もっと先の自分はどうだろう。  想像すると、歳をとることがちょっとだけ、楽しみになりました。  まだ、人としてはまだまだ発展途上なので、ちょっとだけ。  私は見た目のんびりですが、とてもとても短気で。  一方的に愛を与え続けるなんて、とてもとても無理です。  だけど、そういう形もあるのだなと、今は思います。
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