坂から下りてきたら

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⑴  青々とした木々に囲まれた坂道は、緩やかな勾配(こうばい)の道だった。その坂の上には、自動販売機がある。坂を下ったところには、別荘がいくつか点在していた。軽井沢の中心から離れたここは、別荘の所有者以外の車が通ることは滅多になかった。それでも夏のお盆の時期には、他県ナンバーの車を見かける。  神野(かみの)信次(しんじ)が所有する別荘は、坂道の麓にあった。間取りは3LDKで平屋。天井と壁の板張が、木々に囲まれているような雰囲気があり、それが気に入っていた。ただそれは不良債権の物件を、タダ同然の価格で手に入れたものだ。そうでなければ、中堅製薬企業のMR(医薬情報担当者:Medical Representative)の神野に別荘など購入することなどできない。ただ維持費はかかるので、一度手放そうかと話したが、妻の彩矢(さや)が嫌がった。彩矢は、別荘を所有しているということを、それとなく友人達に自慢したいらしい。本人に自覚はないが、彩矢は見栄っ張りだ。家族のためだと言って、外出する時は必ず、海外の有名ブランドのロゴの入った洋服なりバッグなりを身につける。そして往路の車内では、女性の品位について書かれた本を熱心に読んでいた。見る度に手にしているので、何度も読み返しているに違いない。  別荘には毎年夏に訪れていた。家族は妻以外に、娘の優希(ゆうき)、息子の(れん)がいる。優希は十三歳で年頃だが、誘えば断らない。優希は感受性が鋭い子で、気が優しく、面倒見がいい。蓮の面倒もよく見たが、最近では喧嘩している姿の方が多かった。優希は、見栄っ張りな彩矢とは合わないのか、中学生になってからは彩矢との距離は遠ざかっているようだ。蓮は、優希がしっかりしているだけに、甘やかされがちだった。  十歳になる蓮は、車の中でもどこでも、ずっとゲームをしていた。別荘に到着してからも、リビングのソファでずっとゲームをしているので、荷物を運ぶ手伝いをしていた優希が叱った。本来は、母の役目なのだが。すると蓮は他の部屋に移動して、ゲームを続けた。別荘前に敷かれた砂利に停めたワンボックスカーの荷台から、荷物を運び出すのを手伝っていた優希は、不満げに信次に要求する。 「お父さん、蓮を叱ってよ。全然手伝ってないよ」  すると、海外ブランドのロゴが、斜めに入ったTシャツを着た彩矢が口を出す。 「蓮は疲れてるのよ。だから、そっとしておいてあげて」  すかさず優希が反論する。 「わたしだって疲れてるよ。同じ時間車にいたんだから」 「蓮よりも年上なんだから、体にかかる負担も違うでしょ」  彩矢は何を言っているのかと言いたげに、優希を冷たく見て、荷物を持って玄関を入って行った。優希は両手の拳を握り締めて、肩を震わせている。信次は何と声をかけていいか分からず、優希の肩に手を置いた。 「荷物はお父さんが運ぶから、優希も休んでいいぞ」 「……別にいい」  優希は言うと、これ見よがしに両脇にボストンバックを抱え、玄関を入っていった。信次は溜息を吐く。優希と彩矢のやり取りは、最近ずっとこんな感じだった。
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