5、お願い、そんなにいじめないで-1

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5、お願い、そんなにいじめないで-1

 夏のピークを過ぎ八月後半から、翔太たちアサヅカフーズ営業一係の面々は、いよいよ年末へ向けてキャンペーンを張る。戦闘開始だ。先月立てた作戦の通り、卸の担当者に同行させてもらい、得意先へ受注営業をかける。  予算を使う行動は、上長である行人の決済が要る。居酒屋チェーンのバイヤーとの商談。日程とリベート設定。卸が紹介してくれる未取引先のリストと提案用の製品サンプル。企画部が制作した販促物では足りない、細かな必要物品の数々。翔太の未熟な営業力ではまだ製品のよさを伝えきれないため、「ブツ」でそこをカバーすることになる。  うんうん唸りながら作った翔太の計画を、行人はあっさりボツにした。 「経費がかかりすぎだ。これじゃ何のための営業か分からん」  あちゃー。翔太は昨年の年末受注営業を振り返り、これでも経費抑えめで考えたのだったが。 「……分かりました」  ガックリ肩を落とす翔太をさすがに不憫に思ったのか、行人は、 「既存品の紹介ツールや新規店に持っていく挨拶品は、去年の残りが物品庫にあるから。既存のグッズを活用して」 と付け加えた。  翔太が却下された計画書を手に自席へ戻ると、入れ替わりに原田と内海が係長席へ向かった。  原田-内海ペアが担当するのは、取引先に大手を多く持つ全国展開の食品卸。営業計画も派手になりがちだ。原田のプレゼンを聞くともなしに聞いていると、派手な計画に見合った、経費のかかる提案営業を考えているようだった。  行人は、押しの強い原田のしゃべりを黙って聞きながら、内海に手渡された資料に目を走らせていたが、原田がひと呼吸入れたタイミングでそれを承認した。 「分かりました。これでお願いします」  翔太の視界の隅で、原田が「よしっ」と拳を握りしめたのが見えた。内海はわーっと小躍りしている。  彼らがそのまま物品手配や提案内容の具体的な詰めに入るのを聞きながら、翔太は席を立った。    物品庫を漁りに行く前に手洗いに寄った。 (今年は原田さんに花を持たせたい、よね……)  歳下の上司にいちいち対抗心を燃やす面倒な原田だが、裏で行人は彼を昇格させる任務を負っていた。来春の人事異動で、部下を育成できる係長職を一名増やす計画なのだ。  係長職をひとり増やしたあと、現在の係長たちがどんなポジションの入れ替えをするのか、それとも誰か辞めるのか。その先の人事について翔太は知らない。原田が昇格して行人の元を離れれば、行人は今よりも仕事をしやすくなる。翔太に分かるのはそれだけだ。  原田と内海が担当する先は、翔太が担当する地場密着の卸と違って、相手も大きいところが多い。大手にはよい話がいっぱい来る。そんな中で、たくさんの競合の中からアサヅカの製品を選んでもらうには、それなりの経費をかけなければならない。事情は分かる。行人の判断も正しい。 (まあ、係の中で、ユキさんの立場や思いを、一番分かってるのは俺だし)  翔太はハンカチで手を拭いた。ハンカチを毎日ポケットに入れて出勤できるようになって、翔太は自分がえらく大人になったような気がしている。身だしなみは本来苦手だ。  翔太は鏡で自分の顔を確認した。しょげてるように見えないか、元気ないつもの顔をしているか。行人がいつも「可愛い可愛い」と喜ぶ自分の顔。行人は、翔太の顔立ちが美形だとか、そういうことを言っているのではない。翔太の表情だとか、反応だとか、そうした内面の表れが、翔太のそうした性格や反応が気に入っているのだ。 (しっかりしろよ)  翔太は両手で頬をパシパシと叩いた。鏡の中の自分が心もち口角を上げたのを確認して、翔太は廊下へ出た。  物品庫は階段の裏で、いつも施錠がなされている。三階の総務部へカギをもらいに行こうとした翔太の腕を、いきなり誰かが強くつかんだ。 「加藤くん」  行人だった。 「係長?!」 「ちょっと来て」  行人は有無を言わさず翔太の腕を引っ張った。大股で階段の奥へ向かい、行人にしては珍しく乱暴な動作でもどかしげに物品庫のカギを開け、引きずるように連れてきた翔太をその中へ押し込んだ。 「係長?」  行人は無言で片手を後ろに回しカチリと部屋のカギをかけた。もう片方の手がつかんだままの翔太の腕を強く引く。驚きに声もない翔太は行人に唇をふさがれた。 「ん……っ」  噛みつくような行人の唇。その舌が翔太の快楽を引き出すように動く。重心を失った翔太の身体はバランスを崩し、スチールラックに押しつけられてじりじりと倒れていく。 「ん……んん」  翔太は甘い声を漏らしそうになり、焦って首を横に振った。 「ユキさんっ。ユキさん、ちょっと待って」  唇が離れた隙に翔太はようやく身体を立て直し、逃れようと行人の胸を押した。 「どうしたんですかユキさん。俺何とも思ってませんよ」  翔太は手の甲で口の端を拭いながら言った。行人はうつむいて、唸るように言った。 「……ショウちゃんにあんな可愛いカオされたら、俺……」  再び顔を上げた行人は凶暴な光を瞳に宿して、翔太の肩を部屋の隅に押しつけた。行人の唇がもう一度翔太の唇をこじ開けた。唇が、舌が、行人のもたらす信号が脳へ火花のように伝わり、明滅するその激しい光に翔太は意識を持っていかれそうになる。  長く短い数秒のあと、やっと離してもらえたと思ったら、行人の唇は頬、顎、首へと下りた。音を立てて皮膚を吸われ噛まれるその感触が、翔太の背骨を伝った。このまま進むとまずい。戻れなくなる。翔太は焦った。翔太はいやいやをするように首を振り、行人の頭を固く抱いて動きを止めた。 「ユキさん、俺、こんなオフィスラブみたいなの嫌です。いつ誰が入ってくるか分からないなんて、集中できない」  行人は翔太の首の上で、わざと舌が翔太の皮膚をかすめる近さでこう言った。 「大丈夫だ。カギは俺が持ってる」  翔太は必死に抵抗した。 「総務にスペアもう一本あるじゃないですか」 「このフロアは営業の縄張り(シマ)だ」 「何すか縄張りって。ヤクザじゃあるまいし」  行人の指がシャツ越しに翔太の腹に触れた。翔太は思わず目をつぶった。 「ヤだ!」  翔太は全身で行人を押しのけた。 「俺、ユキさんの立場も会社の状況もようく分かってますから。去年の販促物の残り、探していきます。だからユキさんは早く戻って」  翔太は肩で息をしながらそう言った。行人の目が不穏に光って翔太を見つめていた。荒っぽいキスのせいで唇が赤く濡れている。翔太はそこから目が離せない。  行人のくれるものなら、それがどんな感覚でも欲しい。だからこそ、翔太は今ここで行人を受け容れる訳にはいかない。自分の欲望が起動してしまったら、途中でそれを止めることはできない。翔太の膝が震えていた。  ふたりはそうしたまま数秒にらみ合って立っていた。  行人は無言でネクタイを直し、カギを置いて出ていった。 (危なかった……)  翔太は大きく肩で息をつき、手の平で髪がヘンに跳ねていないか確認した。  あんな行人を見たのは初めてだった。  何か、焦っているのだろうか。  翔太の胸に、低いエンジン音のような不安が鳴った。ほかの物音に打ち消されるほど小さかったが、いつまでも消えない耳鳴りのような音だった。  
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