6、俺の知らない、上司の夜-2

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6、俺の知らない、上司の夜-2

 十月に入ると急速に気温が下がった。社用車のタイヤ交換の時期だ。営業先へ行くのに峠越えをする営業職員もいる。早め早めの対応が必要だ。交換の手配は総務が行うが、車をローテーションで整備に出すと、その日使える台数が減る。翔太たち営業は、借受申請を早めに入れて、足を確保しておかないと仕事にならない。   翔太の卸さんとの同行営業が始まった。今月中に年末商戦の受注を固め、ピーク分は来月フル稼働で製造して、十一月後半からどんどん配荷していく。クリスマスケーキとほとんど同じ年末進行だ。  課員の直行直帰が増え、営業一課はいつも以上に閑散とした。行人も自分の担当社へ出向く頻度が増えていた。行人の得意分野は非チェーンの個人店だ。個店へ細かく営業していく。早くもラウンジやスナックのママさんたちから、大量に注文が入り始めていた。いつものことだ。  取引先がどこも忙しく、訪問を遠慮するルールとなっている、金曜日。午前は各自取ってきた注文の整理やデータ入力、午後は打ち合わせだ。  翔太は書類仕事が苦手なので、順序正しくひとつひとつ片付ける。溜めると後で大変なことになるのが分かっているからだ。最近は案件事にファイルを分け、さらに未処理のものと処理済みのもののファイルを別の色にして、ひと目で区別がつくようにした。そして、やるときには、集中。これに限る。金曜日はうってつけだ。  手許の書類を処理済みファイルにしまって、翔太は腕を伸ばした。ストレッチを装って首を回す。行人が端正な姿でPCに向かっている。  昨日翔太が営業先から戻って退社するまで、係長席に行人は戻ってこなかった。係員が帰社する時間帯は、身支度を調えたママさんたちが、ゆるゆると開店準備に店に出るタイミングだ。行人は多分何軒か回って、ここぞというときには売上に協力して、注文表にぎっしり記入してもらって直帰だろう。それでも、朝出勤してくる行人に乱れた様子はひとつもない。いつもと同じようにビシッと全身整え、つやつやのお肌で目にはコンタクトを入れて、きらきらの姿で席に座っている。 (神サマ、ずるいよ。どうしてこのひとには、こんなに高い能力を与えたの)  寝グセに忘れもの、破壊された時間感覚。神さまは自分に何を克服させようとして、こんな課題の多い人生を与えたのだろうか。最後にぐっと背中を反らして、翔太は机上の作業に戻った。係長席から鋭い声が飛んできた。 「加藤くん!」 「はい!」  翔太はピッと背筋を伸ばした。  行人は、昨日の翔太の日報に目を通していた。職場ではポーカーフェイスの行人だが、眉がわずかに吊っている。 「朝から晩まで、村上さんと回ってたの?」 「あ、はい。丁度スケジュールが合ったので、『一気にやってしまおう』ということになって……」  説明する翔太に、行人はピシャリと言った。 「効率悪いんじゃないの? 村上さんにも都合があるんだし。新規の顔つなぎだけしてもらったら、後はひとりで行ける先もあるんじゃない?」  翔太はしどろもどろに返答した。 「いや、でも、営業スケジュールは事前に係長に見ていただきましたし……」 「回る可能性があるところを、全部挙げただけと思ってたよ。まさかあの通り、本当に行くとは」  行人は翔太の昨日の日報を、面白くなさそうに数度振った。これはいつものツンデレじゃない。完全にお腹立ちだ。翔太はそう感じとった。翔太は平身低頭謝ることにした。 「すみません! 村上さんに時間を取っていただいたところは、昨日で全部終わりましたんで。あとは自分ひとりで回りますんで」  椅子から立ち上がり係長席に向き直って、翔太は深く頭を下げた。翔太の頭上で、行人のため息がかすかに聞こえた。 「取引先に負担をかけないように。自分ひとりの付き合いじゃないんだから」 「申し訳ありませんでした」  翔太はもう一度頭を下げた。  部屋の入り口から、企画課のひとが顔を出した。 「おーい、西川ー。十一時からPT打ち合わせだよ」  腕時計を指差して、そのひとは続けた。 「もう出られる? まだならその旨、俺言っとくけど」  行人は書類立てから厚いファイルを取り出して立ち上がった。 「いや。俺も今行く」  入り口で待っていた企画課と、なにやら楽しそうに話しながら行人は廊下へ消えた。翔太は中断していた書類仕事に戻った。隣の席から内海が言った。 「係長、相変わらず厳しいですね。自分がOK出したスケジュールじゃなかったんですか?」  翔太に同情的な声色だった。翔太は曖昧に笑って答えた。 「いやあ、あれは、自分が悪いんですよ。いくらスケジュールの都合が付いたからって、あまりにも取引先に負担をかけてしまいました。係長の言った通りだったと思います」  内海は肩をすくめて言った。 「加藤さん、辛抱強いですよね。あんな言われ方されたら、あたしだったらキレちゃうかも」  翔太は弱気に笑った。 「あはは……。まあ、『言われてるうちが花』ということもあるからね」 「まあ、そうですけど」と内海はプンスカしている。ひとのことなのに、優しい娘だなと翔太は思った。  翔太は、行人が何に文句をつけたいのか、ピンと来ていた。何が不満なのか。  直行直帰が続いて、行人は翔太の部屋へ来られない。会社でもそれぞれ営業に出るので、顔を合わせる時間も短い。ふたりで一緒に過ごせた時間、今週はほんのわずかだ。なのに、取引先の担当とは丸一日一緒にいたなんて、ということだろう。完全に理不尽な、あれは嫉妬だ。  可愛い行人の、可愛い不機嫌。八つ当たりされるのも、翔太にはくすぐったいくらいだった。  でも――。  翔太は思うのだ。  でも、行人こそ、内緒で秋津の担当者と会ってる。  何のために?   翔太と過ごす時間を犠牲にしてまで?  午後はどこかへ出ていた原田も戻ってきた。珍しく係員が全員揃っている。夕方からは打ち合わせだ。  試食で昼休みも拘束だった行人が、PT(プロジェクトチーム)から戻ってきた。手には洋菓子店の箱を提げている。地下鉄駅の隣の、古くからある店の箱だった。 「内海さん、これ、打ち合わせのお茶菓子。お茶と一緒に、みんなに配って」 「はい」  内海は立ち上がった。翔太も一緒に立ち上がった。四人分のお茶なら、ふたりで淹れれば早い。  営業一課には、書類棚の一角にお茶道具が用意してある。電気ポットと、コーヒーのドリップバッグと、幾種類かのティーバッグ。翔太は全員の希望を取った。原田と行人はコーヒー、内海はほうじ茶がご所望だった。  お茶道具の前で、内海は翔太に訊いた。 「加藤さんは? 何が飲みたいですか?」  その声に多少の不機嫌さを感じて、翔太は慌てて言った。 「言っとくけど、女子だからやらせてるんじゃ、ないからね。一応、社歴の浅い社員がやることになっていて、だから去年まではずっと俺が」  翔太の慌てぶりがおかしかったのか、内海はふふっと笑った。 「加藤さん、優しいですね。分かりました。社歴の浅い社員がお茶汲み……ってのも、若干どうかと思いますけど、毎日のことじゃありませんし、たまにはいいってことにしましょう」 「そうだよ。それに、係長の仏頂面が淹れたお茶なんて、恐れ多くて飲みたい気持ちになるかい?」 「それもそうですね」  内海はクスクス笑ってうなずいた。 (本当は、ユキさん、お茶どころか、ご飯作ってもメチャおいしいけどね)  翔太は内心そう思った。だがこれは誰にも内緒。それを堪能できるのは翔太だけの特権だ。  ふたりで飲みものを持って島に戻ると、こちらでは行人がムスッとしていた。 (こっちはこっちで不機嫌かよ……。もう、面倒くせえな)  女のコ相手に嫉妬なんてしなくていいのにと翔太は思った。自分は女のコには惹かれない。男女差別との誤解はフォローするが、こちらはもう、放置だ。どうせどこかのタイミングでねっちり仲よく過ごせば、行人の機嫌は直る。翔太はそう開き直って気にしないことにした。 「わあ……うまそう」  洋菓子店の箱からは、プリンが出てきた。ガラスの器に入った、幸せの卵色。 「おいしそうですね」 「係長、すいません。いただきます」 「ああ、みんな今週はたくさん働いて、疲れも溜まってきてると思うので。食べながら話そう」  上司らしくみんなを気づかって買ってきたプリンだが、翔太だけはもうひとつの目的に気づいていた。  プリンは翔太の好物。  さっき翔太に八つ当たりした、その詫びだ。翔太は自分の頬がだらしなく緩むのを感じ、慌ててコーヒーカップをのぞき込んだ。 (別に怒ってないのに。ユキさん、可愛いな)  わあきゃあ言わないだけで、翔太も行人の愛らしさに、メロメロになっているのかもしれない。プリンのうまさが、翔太のニコニコ顔を隠してくれているだろうか。 「いやあ、やっぱり一度、東京の本社までうかがわないといけませんよ」  原田が大きな声で朗らかに言い切った。  係の打ち合わせでは、得意先回りの結果報告を行っていた。成功事例があればシェアして、参考にするのだ。  原田-内海チームの最大の取引先は、全国区の秋津物産。いつもはその札幌支社を相手に営業をしている原田だが、今度の新商品は札幌支社でも大好評で、「ぜひ東京本社でもプレゼンを」と言われたそうだ。 「俺と内海の試食会の盛り上げが功を奏したのだと思いますが、秋津の竹部さんが、『これは札幌ではもとより、東京で売れる商品です』と、太鼓判を押してくれまして」  翔太のスプーンから、すくったプリンが瓶の中に落ちた。  竹部さん。秋津物産のアサヅカの担当さん。  翔太はチラッと行人の顔を見た。耳の中に、先日の村上の言葉が蘇る。 『すすきのの「ローズ・ガーデン」で、お宅の西川係長、見ましたよ。秋津物産の竹部さんと一緒だったけど』  原田のこの様子では、原田も行人が秋津の担当者と会っていた事実を知るまい。  行人は何の表情も浮かべていなかった。完璧なポーカーフェイスだ。 「そうですね。東京本社にプレゼンできるなら、早い方がいい。原田さん、竹部さんと連絡取って、スケジュール押さえてください。来週再来週で設定できるなら、僕も稟議通します。それ以降なら、今年はパスで」 「分かりましたー!」  原田は意気揚々と返事をする。  議事は順調に進行した。 「一度で結果が決まる得意先と、二度三度行って初めて結果が出る得意先を見分けて、以降の結果を最大にする」との方針を共有して、打ち合わせは終了。  エネルギッシュな原田に付き合わされて疲れたのか、内海は「お先に失礼しまーす」と早々に引き上げていった。  原田のところに、商品開発のラーメンスープ担当者がやって来た。前年割れしそうなラーメンスープのテコ入れについて相談されている。 「ラーメンスープって言ってもなあ」  原田は腕を組んで顎をこすった。 「今年は『Pro'sキッチン』ですもんね、係長」  都合の悪いところは上司のせいにする。これも原田の実力のひとつだ。少なくとも原田はそう思っているのが見え見えだ。  行人はにっこり笑顔になった。 「十月になってから数字が足りないって、ちょっと対応遅いんじゃないですか? 新商品ならともかく、スープは何十年も前からのウチのド定番でしょ。もっと早く気付きましょうよ。これからじゃ、打てる手も限られますよ」  発言内容はド直球だ。聞いている翔太はドキッとした。 「ま、それは冗談として」  行人の声が真面目になった。 (今の冗談だったんだ……)  否応なく翔太の耳にもその会話は入ってくる。コワい。 「OEMの方で数字はカバーできる予定でしたよね。そっちの方はどうなってるんですか? ここ数年ラーメンスープは毎年これだけのパーセンテージが落ちてる現状なんで、その分を……」  行人はよどみなく指摘していく。 (すごいなあ。そんな、他部門のことまで把握できてるんだな)  正確には、他部門のこととは言い切れない。業務用食品の販売は、行人の一係が担当だ。そして、OEM生産の営業は、廊下の向かいの営業二課の担当だった。  翔太は今日の日報を書き終えた。行人の机に提出しに行く前に、ちょっと考えてふせんを貼った。みどりのふせん。そこには、「今日、ウチに来ますか?」と小さく書いた。一応、原田たちから読み取られないよう、いつもより字を小さくしてみた。  今日は金曜日。明日もあさっても仕事は休み。行人が泊まっていっても、帰ると言っても、どちらにしてもゆっくり過ごせる。翔太は立ち上がり、そっと係長机に日報を置いた。行人は原田や開発と話を続けていたが、長い指が大事そうにふせんを剥がしたのが見て取れた。  翔太は「お先に失礼します」と一課を後にした。  地下鉄に揺られていると、翔太のスマホが震えた。翔太はいそいそとメッセージを開いて、がっくりと肩を落とした。 『今日は先約。明日連絡する』
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