6、俺の知らない、上司の夜-3

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6、俺の知らない、上司の夜-3

 翔太はボーッとベッドから起きた。  枕許のカーテンの隙間からは、昼の光が射し込んでいた。  翔太は時計を見た。十時。  ごちゃごちゃと空いたプラスチック容器と少しの食器が載ったテーブルが目に入って、うんざりした。昨日会社に背負っていったかばんも、脱いだシャツや靴下も、床のあちこちに散らばっている。翔太はため息をついた。行人が来ないと、部屋の中は荒れ放題だ。  仕方なく、翔太はのそのそと起き出して、昨日の惨状の片付けにかかった。  溜まった食器を洗って食器カゴに積み上げ、洗濯機を回して洗剤を振りかけた。ものを端に寄せて掃除機もかけた。  洗濯機が止まるのを待つ間、湯を沸かして先日モリノーさんからもらってきたコーヒーを淹れた。冷蔵庫の牛乳の消費期限を確かめて、コーヒーカップに注ぎ足す。  リビングは外の廊下に面して窓がある。南向きのその窓からは、秋の低い光が部屋の中まで射し込んでくる。そう。ひとりで住むなら、さほど居心地の悪い部屋じゃない。  昨夜の行人の「先約」とは何だったのだろう。  翔太はコーヒーの苦味をゆっくり味わいながら考えた。  考えても答えにたどり着けないのは分かっていた。なぜなら、翔太の部屋で過ごす以外の行人のプライベートを、翔太は何ひとつ知らないからだ。翔太が、部屋の間取りも、食べているものも、能力や欠点も、全て行人に知られているのとは正反対だ。 (ユキさん、誰と、どこで会ってたのかな)  気になるが、翔太の方から連絡するのは、何だか負けた気がして悔しい。意地になって翔太が行人からの連絡を待っていると、洗濯ものを干し終わった頃にスマホが震えた。行人からのLINEだった。 『ショウちゃん、お昼食べた?』  翔太が時計を見ると、すでに十二時になっていた。 『まだです』 『じゃあさ、昼飯がてらドライブしない?』 『いいっすねー』 『じゃ、車借りたら迎えに行くよ』  最後に行人は、車からはみ出した笑顔のキャラクターのスタンプを送ってきた。  翔太は急いでコーヒーを飲み干し、ざっと洗ってカゴに積み、シャワーを浴びに風呂場へ立った。 「年末年始、沖縄行かない?」  唐突に、行人は言った。  翔太は答えた。 「俺、沖縄って、行ったことないっす」 「俺もね、ずっと昔、家族で行ったきり。じゃ、決まりね」  行人はそう言って笑った。  翔太は南向きの窓際で、行人の車が来るのを待っていた。ふたりでどこか出かけるのは久しぶり。夏の旭川以来だった。  行人はしばらく国道を走らせて、翔太の好きな肉の食える店へ車を入れた。今日の行人は、革のライダーズジャケットに下はビンテージっぽいデニム。洗いっぱなしの髪に赤い縁のメガネはいつもの休日だ。  注文の品が来るのを待つ間に、行人は年末年始休暇の話題を持ち出したのだった。 「去年は近場の温泉に行ったね」 「個室露天風呂、楽しみにしてたんですけど、寒くてのんびり入ってられませんでした。あれは冬に行くところじゃありませんね」 「だから次はさ」 「暖かいところ、ですね」  人気の行楽地では、宿がすぐ埋まってしまう。沖縄なら、早く決めて予約をしておかないと。 「ボーナスも出ますしね。てか、今年どのくらい出るんだろ」  貧乏暮らしの長い翔太は、まず金の算段が先に来る。 「ボーナスね。査定、もう課長に出したよ」  行人はテーブルに肘をついてのんびり言った。翔太は勢い込んで行人の手首をつかんだ。 「俺の評価は? 俺のこと、何てつけました?」  行人はにっこり笑ってこう答えた。 「それは勤務時間内に話すよ。俺、休みに仕事はしないから」  翔太はがっくりと「ですよねー」とうなだれた。 「何、ショウちゃん。心配なの」  翔太はコップの水をひと口飲んだ。 「そりゃそうですよ」 「大丈夫。心配要らないよ。この俺が大事に大事に二年半育ててきたんだから。もう独り立ちしても、大丈夫」  行人は目を伏せて優しく笑った。長い睫毛が揺れた。 「ユキさん……」  独り立ちなんて。ずっと行人の下で厳しく小言を言われたり、ミスを叱責されたりしていたい。行人の愛情表現が、翔太は大好きだった。会社員である以上、いつかは行人の、今の上司の手から離れる日が来る。  帰りには、ふたりでショッピングモールで服を買った。沖縄で着る水着と、ビーチサンダル。それから翔太は、行人にアドバイスしてもらって、私服を数着。行人も何か買っていたようだった。買いもの袋を提げてモール内を歩いていると、旅行代理店がテナントで入っていた。行人はさっそく沖縄旅行のパンフレットを数枚ピックアップした。  再び車を走らせた。のどが乾いてきた。天気の好い日は、日差しで車内の温度が上がる。ふたりは国道沿いのカフェに入った。  陽当たりのよい窓際のテーブルは、夏は暑いだろうが、この時期なら暖かくて丁度いい。行人はさっきピックアップしてきたパンフレットを取り出した。行人はマップが印刷された部分を開いて、沖縄の観光スポットを指でたどった。 「ほら、ショウちゃん、どこへ行ってみたい? お正月だから、お休みのところも多いかなあ」  翔太は行人の手許をのぞき込んだが、初めてのところでもあり、よく分からなかった。 「うーん。俺、あくせく観光ポイントを回って歩くより、海辺でのんびりしてたいです」  翔太がそう言うと、行人も嬉しそうに笑った。 「俺も」  ふたりで向かい合ってパンフレットをのぞき込んでいると、ときおり髪が触れ合う。ひと目が気になって、翔太は離れなければと思うが、磁石のように離れがたい。 「宿なんだけど」 「はい」 「男ふたりで泊まるって言っても、特に驚かれないとこがあるらしいよ」 「へえ、そうなんですか」 「うん。普通のリゾートホテルでさ、口コミで『自然に受け付けてくれる』って広まって、結構評判がいいんだ」  どこで聞いてくるのか、大した情報網だ。地方で随一の都会で育って、バンドをやっていたりして、行人はきっとモテたろう。翔太の前にも付き合ったひとが複数いたのは間違いない。もしかして、今も誰か、ときおり会って遊ぶくらいの誰かがいても。 翔太が黙り込んだのを見て、行人はパンフレットを片付けた。 「ま、いろいろ検討して、もっとよさそうなところがなければ、って話」  行人はカップを手に、外を眺めた。黄色く色付いた葉が風に舞って、日の光にキラキラ光る。秋の景色。それを眺めるメガネの行人。どちらも美しい光景だ。  翔太は恐る恐る口を開いた。 「昨日の夜、どこへ行ったんですか?」  不審がられないようなるべく平坦な口調を心がけたが、うまくいっているかどうか翔太には分からない。 「ああ、取引先とね。半分営業みたいなモンだったよ」  行人は眩しさに目を細めてそう答えた。 「ユキさん、今年も受注高、大きいですもんね」  翔太の聞きたいことを話させるには、どう持っていけばいいのだろう。 「今年は『Pro'sキッチン』があるからね。売れるものがあるときの数字は、作りやすいよ」 「そうっすね」  ――撃沈。  車に戻って翔太は言った。 「今日は?」  行人はハンドルを握って、前を見たまま声だけで返事をした。 「んー?」 「今日こそは、『先約』なんてナシですよ。一緒にいて……くれますよね」  行人は返事をしない。  しないどころか、むっつり黙ったまま翔太の方を振り向きもしない。  もう、このひとは、翔太に前ほど夢中じゃないのかもしれない。翔太が悲しくそう思ったとき。 「ショウちゃん! もう、運転中は止めてよね! 危ないでしょ」  行人は語気も荒く翔太を叱りつけた。翔太は訳が分からない。 「え……何を」 「まだ自覚ないのか、このガキは!? 可愛すぎるって言ってんの! あんなカワイイこと言っといて、ポカンとしてるって何だよ。くっそー、カワイイな!」 「ユキ……さん?」 「俺、心臓丈夫だからいいけどさ。もし心臓弱かったら、俺、もう百遍くらい死んでるからね。全部、ぜーんぶ、ショウちゃんのせいだからね!」  そんなことを言われても。  ……少なくとも、行人は翔太のことをまだ好きでいてくれることは分かった。  翔太の胸がじんわりと熱くなった。 「……ごめん……なさい」  下を向いて翔太は謝った。行人はまた押し黙ってハンドルを切った。  大きな公園の縁の道を少し入って、行人は車を急に止めた。 「ユキさん?」  エンジンを切って、行人はがばと翔太を抱きしめた。 「ユ、ユキさん? 何? どうしたの」  行人は怒ったように唸った。 「だから、カワイイんだって」 「ユキさん……」 「禁欲生活一週間の俺に、脳天をかち割るような攻撃をしたぞ、ショウちゃんは、今!」 「ええーーっ?」  行人は(うめ)くように言った。 「責任……取って」  翔太は困った。 「ええと……」  自分にすがりつくように抱きついている行人の腕から、自分の腕を抜き出した。 「……よしよし」  翔太はそろそろと行人の背中を、赤ん坊をあやすように撫でてみた。  行人の背中がガクガクっと震えた。翔太が「あれ、失敗だったかな」と思った瞬間、行人は爆笑した。 「あはははは! もう、負けたよショウちゃん。何をやってもどうせカワイイよ。分かった分かった。俺の負け」  行人があまり笑うので、翔太もホッとして少し笑った。営業職でこれでもひとには大分慣れたと思うのだけど、やっぱりコミュニケーションが下手なんだろうな。翔太は内心そう思った。 (でも、いい。それでもユキさんは喜んでくれる。ユキさんが笑っててくれると、俺嬉しい)  翔太は苦しそうに腹を押さえている行人に提案した。 「じゃあユキさん、俺が何かしゃべると危ないなら、運転交代しましょうか。俺、そっち行きますよ」  翔太が助手席を降りようとすると、行人が言った。 「ダメ。俺の両手が空いたら、ショウちゃんの身体ベッタベタに触っちゃうもん。そっちの方がもっと危ない」  ドアの把手を握ったまま、翔太は固まった。頬がポオッと熱くなる。 「……ユキさん……」  行人は車のエンジンをかけ、言った。 「俺、もうガマンできないよ」  行人は後方を見やり、慎重に車の向きを一八〇度回転させた。 「ショウちゃんは平気なの?」   市内へ帰る車の列がなかなか途切れない。行人は車の切れ間を待って右を見ている。長めにカットされた髪が耳にかかって、シャープな顎のラインに続く。 「俺……」  翔太は言いかけて口を押さえた。  行人は横目で翔太を見た。 「何?」  翔太は慌てて勢いよくかぶりを振った。 「言いません。また何か言って、ユキさんを危険な目に遭わせちゃいけないんで。着くまでもう、何も言わないことにします」  ようやく車の流れが途切れた。行人は車を素早く国道に入れた。 「それも充分、可愛いけどな」  行人の頬が笑っていた。
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