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6、俺の知らない、上司の夜-4
いつもの近くのコインパーキングに車を入れて、行人は後部座席から何やら荷物を取り出した。
「これ、ショウちゃんのとこに置いといてもいいかな?」
「何です? それ」
「スーツとYシャツとそれから……仕事着一式」
「ユキさん……」
出社用の着替えだ。
「洗うとき、ショウちゃんの分も一緒に洗ってあげるから」
交換条件の積もりらしい。車に施錠して行人は歩き出した。翔太はその後をうつむき加減について歩いた。
「これからは翌日の着替えの心配なく、ウチに泊まれるんですか?」
今すぐ行人の背中に飛びつきたい。一週間、この背中をお預けにされたのだ。もう待てないのは行人だけじゃない。
行人は荷物を持って歩きながら、翔太を振り返った。
「カワイイーー!! ショウちゃん、もう今日何回目だよ、その可愛いの。マジで俺を殺す気かっての。可愛すぎる!」
「洗濯なんていいですよ。俺洗いますから。だから」
翔太は勇気を出して、階段を昇る行人の背中に言った。
「……だから、もっと一緒にいてください」
恥ずかしい。翔太は拳をギュッと握った。だが、ここを乗り越えないと、行人と対等な大人の関係になれない。いつも行人に甘やかされて、行人のアクションを待っているだけなんて、カッコ悪い。
「だから、俺を何度殺せば気が済むのって」
行人は部屋にカギをかけ、靴を脱ごうとした翔太を玄関で抱きしめた。
「ユキさん……?」
翔太は振り解こうともがいた。だが行人の長い腕は、翔太が苦しく感じないギリギリの力で巻きついて、翔太を身動きできなくした。
「ユキさん!」
行人の唇が翔太の首筋に吸いつく。密着した部分に行人の欲望を感じた。翔太は焦って催促した。
「ユキさん、靴脱がせてください。ひとまず部屋へ上がりましょう、ね?」
行人は返事をしない。行人の指が翔太のシャツの下へ潜って、翔太の肌を弄ぶ。
「あ……っ。ユキさん、ちょっと。ちょっと待って」
翔太は行人の腕をつかんで、その動きを止めようとした。行人はもう一方の手を翔太の腰のベルトにかけた。
「もう待てない。さっき言ったろ」
行人は荒い呼吸で翔太の耳にそう吹き込んだ。翔太の欲望は行人の手で衣服の外に引き出された。その感覚に翔太の身体がびくんと震えた。
「ここでヘンな声出したら廊下に聞こえる……」
「ヘンな声? 可愛い声だよ。俺、ショウちゃんの声、好き」
行人の声は嬉しそうな笑いを含んで甘い。翔太の好きな甘い声。翔太はまぶたをギュッと閉じた。
「ユキ……さん……」
翔太の膝が崩れた。靴のまま床に手をついた翔太の身体を、行人は背後から覆いかぶさるように抱きしめた。行人は翔太の耳たぶをかむように言った。
「ショウちゃん……、この一週間、自分でしてた?」
恥ずかしさに身をよじり、翔太は唇をかんだ。
「ん? 答えてショウちゃん」
行人は翔太の欲望を責める手を緩めた。翔太はその感覚を焦がれて答えてしまう。
「……したり、しなかったり、してました……」
行人はわざと手を離し、指でつーと翔太の敏感なところをなぞる。
「まさか、ほかの男に触らせたりしてないよね」
翔太の腰はびくりと震えた。
「ユキさんっ……!?」
翔太は瞳をうるませたまま身体をひねって振り返った。
「そんなこと、あるわけ……んんっ」
振り返った翔太の唇を行人がふさいだ。翔太は気が遠くなりながら、されるがままになっていた。行人の手が再び翔太の脳から理性を吹き飛ばすように動く。
「スマホに……出会い系アプリ落としたりしてない?」
行人は翔太の唇を解放し、代わりに首から背中に舌を這わせた。翔太は大きく首を振った。
「俺……俺、ユキさんしか欲しくないですから」
「ショウちゃん……本当? そんなに俺がイイの?」
翔太は行人に与えられる感覚に激しく揺すぶられながら、うなずいた。
「じゃあ、そう言って。ショウちゃんの口で」
行人の熱量のこもった声が翔太を責める。翔太は朦朧としながら口を開いた。
「ん……俺……俺、ユキさんが、イイ……。ユキさん……ユキさん……」
意識が……飛ぶ。
「あ……出ちゃうぅっ」
翔太の全身がガクガクと大きく震えた。痙攣する翔太の身体を、行人の腕が優しく抱いていた。痙攣が収まるのを待って、行人は翔太の欲望からそっと手を離した。行人は翔太の欲望を受け止めた手のひらを翔太の目の前にかざした。
「ショウちゃん、見て。すっごい濃い」
行人は手のひらを翔太の唇に近づけた。行人の指のすきまからこぼれ落ちるそれを、翔太は小さく舌を出して舐めた。行人は満足そうに笑って、残りを舐めた。
翔太は長いため息をついた。満足で、恥ずかしくて、悔しくて、ものすごく甘い気分が気怠く全身に満ちていた。悔しい。そう。
仕返しだ。
「ユキさん……!」
翔太の身体に覆いかぶさっていた行人を翔太は押しのけた。
「ショウちゃん?」
行人の身体を靴箱に押しつけ、翔太は行人の足下に跪いた。ビンテージ風のデニムは見た目よりも硬く、翔太は苦労してそのウエストを押し開いた。
「ユキさんも、もう濡れてる……。俺のこといじめながら、そんなに感じてたんですか」
「ショウちゃん……」
「ユキさん……、この一週間、俺のこと考えてくれてました?」
翔太は行人の下着をずらし、わざとゆっくり行人の欲望を露わにする。
「俺のことなんか、思い出しもしなかったんじゃないですか?」
昼は仕事、夕方からは個店営業。担当社ではない取引先と密会し。
翔太の知らない行人が、翔太の知らないことをしている。
(イヤだ、ユキさん、俺の、俺だけのものでいて)
翔太は、そんなことは不可能だと知っている。だから熱くなる。
(いつまでも俺の上司でいて。いつでも俺を叱って)
「ん……」
行人ののどから、低すぎず高すぎない声が漏れる。その声は翔太を駆り立てる。もっと聞かせて欲しい。翔太の好きな、行人の声。
「またずいぶん可愛いことを。離れてるときも、ずっと俺に想われてたいの?」
翔太はもう返事ができない。行人ののどから自分に負けない可愛い声を出させるため、夢中になって行人を舐め、頬ばり、責めている。
「大丈夫だよ。俺、もう、ショウちゃんのことしか考えられない」
(悔しい……)
どこかで嘘だと思いながら、翔太は子犬のように真っ直ぐ行人に懐いてしまう。
「ショウちゃん、好きだよ……」
翔太は無我夢中で動いた。行人の口から翔太の名を何度も叫ばせた。終わって翔太はゆっくりと行人を解放した。
行人はその場にゆるゆると座り込んだ。狭い玄関でぐったりとふたりで座っていた。辺りが暗くなっていた。行人はかすれた声で小さく問うた。
「……ショウちゃんは、どうして俺と一緒にいたいの?」
「え……」
行人は靴箱にもたれ、小首を傾げて翔太に訊いた。
「俺のこと好きなの? だったらどうして、そんなに他人行儀なの? 付き合ってもう二年も経つのに」
行人は笑っていた。少しだけ顎を引いて、淋しそうに笑っていた。いつも自信に満ちて快活な行人に、こんな表情をさせたのは自分なんだと翔太にも分かった。
「ユキ、さん」
翔太の手が震えた。
「ユキさん、俺」
「あ。いい、いい」
翔太が口を開くのを行人は急いで止めた。
「そのうちショウちゃんが言いたくなったら言って。俺、待つから」
「ユキさん……」
待つから。
行人のその言葉は、翔太の耳には、(もう待てない)と言っているように聞こえた。
行人の寝息は翔太の心に、くつろぎとワクワクを同時にもたらす。弛緩と興奮、そのどちらもが心地よく、目覚めに向かう翔太の全身を甘く充たす。狭いベッドに重なり合うようにして眠る行人の体温。
翔太は北側の窓のカーテンを少しだけめくって外を見た。今日はあいにく雨のようだ。この季節、ひと雨ごとに気温が下がる。
(沖縄か……)
彼の地では、冬でも冬じゃないんだろうなと翔太は思う。楽しみだ。
窓側で眠っていた翔太は、行人を乗り越えないとベッドから出られない。翔太は眠る行人をのぞきこんだ。
(ユキさん……キレイだ)
洗いっぱなしの髪がふんわりと顔にかかる。睫毛が長くて、鼻筋がスッと通っていて、本当に美形だ。このキレイな顔をこんなに間近で見られるなんて、なんて幸運なんだろう。
(あばたもえくぼというからな。こんなに「キレイ……」とかって見とれてしまうのは、地球上で俺ひとりなのかもしれないけど)
まあ、客観的に美しいかどうかは、翔太にはどうでもいいことだ。
翔太はふんわりとした行人の前髪に、ついそっと触れてしまった。行人を起こさないよう、そっと、そうっと髪をかき分ける。
(俺がどんなにユキさんのこと好きか、ユキさんは全然分かってないんだ)
その理由も翔太には何となく分かる。翔太が内気すぎて、愛情表現をしないからだ。だから、昨日はチャレンジしてみたのだが、行人に止められてしまった。淋しそうな顔をして翔太を止めた、行人。
(ユキさん……)
「ん……」
ゆっくり目を開いた行人と、至近距離で目が合った。
「んー、ショウちゃん……、今何時?」
翔太はしどろもどろに答えた。
「あ。ええと、七時五〇分です」
寝顔をのぞき込んでいたことを行人に知られてしまった。
「んー……」
行人はぐっと伸びをした。
翔太はドキドキしてパジャマの胸の辺りを押さえた。
「ショウちゃん、俺が起きるの待ってたの?」
「ユキさん、よく寝てたから」
「ははは。俺の寝顔に『美しい……』って見とれてたんだろ」
屈託なく行人は笑った。翔太はふとんを握りしめてうつむいた。行人は軽く驚いた。
「あらら……、マジで? そうかそうか、ショウちゃんは俺の顔が好きなんだな」
行人はからかうようにそう言って、翔太の腰に腕を回した。
(「顔」だけじゃない)
翔太は少し悔しかったが、(じゃあ口でそう言ってやれよ)と翔太の中の翔太に言われ、ぐっと詰まってしまった。行人の顔を見られない。昨日の玄関でのように、またあんな淋しそうな顔で笑っているのだろうか。
翔太は行人の身体をまたいでベッドから降り、逃げるように台所へ立った。
「コーヒー、淹れますね」
ドリップバッグだが、一応豆だ。湯気の出るカップを二つ両手に持って、翔太はベッドへ戻った。
「ありがとう」
行人は笑ってカップを受け取った。翔太はカップを持ったまま、行人のいるベッドに腰かけた。
「珍しいんじゃない? ショウちゃんがコーヒーなんて」
行人はひと口飲んでそう言った。
「ユキさん、好きかと思って買ってみました。味の方は自信ないけど」
翔太は自分のカップをのぞき込んだ。隣では行人が喜んでいる気配がしていた。また行人は翔太の言動を「カワイイ」と思っているのだろう。恥ずかしくなって、翔太は慌てて話題を探した。
「ユキさん、おいしいものが好きですよね。自分で作るのも上手だし」
「はは、食品メーカーは天職です」
行人は芝居がかった口調でそう言った。熱いコーヒーを少し口に含み、行人がまた言った。
「でも、一番おいしいのはショウちゃんかな」
「え」
「可愛くて、優しくて。ココロもカラダも」
翔太はカップを持ったまま動けない。
「大好き」
行人は夢見るようにそう言ってコーヒーを飲んだ。
握りしめたコーヒーが波立った。こぼさぬよう、翔太は慌ててひと口飲んでかさを減らした。心の底から嬉しかった。なのに、何も言えず下を向いているだけの自分が悔しい。
夢見るような口調のまま行人は続けた。
「相性……かな。ショウちゃんと俺、最高だと思わない?」
「相性は俺、分かんないですけど。ユキさん以外知らないんで」
ようやくそれだけ答えられた。声がほんの少しかすれていた。行人は同じ口調でまた言った。
「そのまま、俺以外の誰とも付き合わないでいてくれるといいな」
翔太は深く頭を垂れた。
「それは間違いないと思います。俺、モテないんで。自分から行くタイプでもないし」
「そうかな」
「はい」
「でも、俺、行ったじゃん、ショウちゃんのところへ」
ぽろり……と、翔太の頬に涙がこぼれた。
翔太は驚いて自分の頬を手の甲で拭った。
行人はそんな翔太にそっと腕を伸ばした。
翔太は行人の胸で、少しの間泣いた。
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