8、空っぽの部屋で、たったひとりで-1

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8、空っぽの部屋で、たったひとりで-1

 一月四日の仕事始めは、工場でお汁粉がふるまわれる。今は作っていない小豆の水煮を初日に一ロットだけ回し、開いた鏡餅を投入する。アサヅカフーズの伝統行事だ。  普段事務所詰めで工場に出入りすることのない事務系社員も、この日は工場に集合して部門間の交流を深める。組織は効率を追求すると縦割りになりやすい。だが、食品メーカーの心臓部はあくまで工場。事務所の人間は工場に親しみ、工場の人間は事務職のバックアップがあってスムーズに稼働できると感じる。そうした機会として、この行事は毎年継続されている。  年明け初日は溜まった郵便物とメールを振り分け、挨拶回りのスケジュールを組むだけで午後になってしまう。お汁粉は午後四時。お汁粉が終わったら今日は解散だ。左党の面々にはふるまい酒が用意されている。  バタバタと昼もそこそこに、翔太は休み明けのタスク整理に右往左往した。脳みそがバカンスぼけで上手く働かない。そこへ持ってきて、郵便物やメールを内容に応じて振り分けるとか、スケジューリングとか。翔太の苦手なジャンルのタスクばかりだ。  業務の合間に横目で見ると、行人は係長席で優雅にPC三昧だ。白いYシャツから出た首や手の甲がほんのり灼けている。翔太は手洗いに立ったついでに、鏡で確認してみた。自分の肌も、行人と同じくらいに色付いていた。 (まさか、誰にも気付かれないとは思うけど……)  翔太はネクタイの結び目の辺りを押さえた。幸せな、幸せな休暇だった。  三時五〇分。社内放送が工場への集合を促した。  いつも時間には余裕を持って行動する行人が、珍しくPCに向かってまだ指を動かしている。翔太はそっと促した。 「係長……? 行きますよ?」  行人は面白くなさそうな顔をして「ああ」と短く答え、ようやくPCをパタンと閉じた。  工場では、社長の挨拶、工場長の挨拶ときて、乾杯だ。工場で働くパートの母さんたちが、腕まくりをしてお椀に汁粉をよそっていく。大きな作業台の上には、やかんいくつかのお茶と、日本酒の一升瓶と瓶ビールが並んでいる。飲みものはセルフサービスだ。酒のつまみには、自社製品の惣菜が用意された。漬けものだけは、アサヅカフーズでは作っていないので、他社品だ。  行人は入り口近くに遠慮がちに立っていた。翔太は行人の分もお汁粉を受け取り、行人のところへ持っていった。 「はい、係長」 「お。すまん」  正月明けでひんやりとした工場に、汁粉の鍋から湯気が上がる。この日ばかりは全部門の人間が集まり、工場はひとでいっぱいだ。 (きっとユキさんは、俺に「はい、あ~ん」とかってやりたいんだろうな)  翔太は椀をのぞきこんでふふっと笑った。 「どした?」  行人が翔太の気配に気付いて小さく訊いた。 「ふふふ。何でも」  翔太はにやにやしただけで、笑った理由を黙っていた。 「何だよ、カンジ悪いな」  行人は少しばかり翔太の方に顔を向け、翔太に向けた側だけ頬を緩めた。 「じゃ、後で説明します」 「おう」  紙コップと一升瓶を持って、ひとの群れを渡り歩いている一団がいた。誰なと指差しては特攻し、コップを持たせては酒を注ぐ。ひとしきり話したら次の群れだ。 「係長、何すかあれ」  行人は翔太の指差す方をチラと見た。 「ああ、人事課な。春の人事異動に向けて、情報収集だろう」 「情報収集? こんなところで?」  行人は手にした汁粉を箸でつついた。 「この一年で、それなりにメンバーが替わってる。人事の連中は書類だけで、普段他部署の人間を見ないだろう? 四月入社の新卒以外は、下手したら一度も会っていないこともある。そんな中で、考え得る最高のポジショニングをしなきゃならん。とりあえず社員の顔と雰囲気だけは見ておきたいんだろう。ここでなら全員の面を拝めるからな」  行人は、「去年の仕事始めにもいたぞ。見なかったか?」と付け加えた。翔太は首をひねった。記憶にない。多分、行人と行ったばかりの温泉旅行のことをぐるぐる思い出し、余韻にふけっていたのだろう。  原田がビールを手にやってきた。後ろに内海も控えている。こちらはお茶だ。 「係長、呑んでますか?」 「いや。俺、酒は呑みませんから」 「またまたあ。多少はたしなむでしょ? 情報、入ってきてますよ」  行人は片方だけ眉を上げた。 「可愛い部下に、少しくらい付き合ってくれても、バチ当たらんでしょ。ひとの担当社をチョロチョロするばかりじゃなく」  原田は新しい紙コップを取り出してビールを()ぎ、行人に手渡そうとした。行人がまた何か辛辣なことを言いかけるのを、翔太は横から止めた。 「原田さーん、まあまあ、係長の分は俺がいただきますから。勘弁してくださいよ、ね」  翔太は原田の手からコップを取り上げ、ちびちびと呑んだ。原田は「ぐーっといけ。ぐーっと」と促したが、翔太は自分のペースを崩さずにゆっくりと時間をかけて呑み干した。翔太がチラと原田の後ろを見ると、内海が止めてよいやら悪いやら、この場のノリをつかみあぐねて困っていた。 「内海さん、心配しなくても大丈夫。みんな大人なんだから、各自自分のペースで好きにやってればいいんです」  翔太はそう言ってやった。内海はホッとしたような顔をしてうなずいた。翔太は仕返しに原田の手からビール瓶を奪い取り、原田のカップに注ぎ返した。内海は経理配属の同期に声をかけられ離れていった。 「原田さんこそ、呑みが足りないんじゃないですか? 原田さんは酒豪ですもんね」  翔太は原田を適当にあしらおうとした。ここは工場だ。アウェイで、しかも自分の部署内のゴタゴタはマズい。翔太にとってではない。行人にとってだ。 「何だよこのぉ。加藤こそ、係長にゴマすりか? 全く、ズルいヤツだよお前は」 「まあまあま」  翔太は行人の表情を横目で確認した。行人は涼しい顔をして汁粉をすすっている。 (ひどいよ、ユキさん。原田は俺に任せたってか)  この場での最善手は確かにそれだ。翔太は原田に「日本酒の方がいいんじゃないですか?」と勧めてみた。 「莫迦野郎、俺にポン酒を勧めてみろ。お前にも同じだけ呑ませるぞ」 「いやあ、困ったなー、原田さん、酒癖悪いっすよ」  人事の一団がやってきた。 「営業一係のみなさんですね。新年、おめでとうございます! 昨年は大活躍でしたね」  紙コップに酒がなみなみと注がれ、行人の鼻先に差し出された。 「いや、わたしは……」  行人が断ろうとするのに、翔太は割って入った。 「失礼ながら、係長の分は、代理で僕がいただきます」 「そうですか、じゃあ部下さんに。こちらは……」 「マーケティング部営業一課一係、加藤翔太です!」 「ああ、加藤さん、昨年はお疲れさまでした」  人事担当者は翔太にコップを手渡した。翔太はちびりちびりと慣れない日本酒を口にした。 「いやあ、素晴らしかったですね、昨年の快進撃は! 『Pro'sキッチン』、販売計画の一三〇%、前年対比はなんと二七〇%ですよ。これまでアサヅカでは、誰もできなかった、前人未踏の快挙。おかげでわたしたちも満足なボーナスをいただけました。さすが営業のエース、西川さんだ。今年もぜひ、よろしくお願いしますよ!」  人事が大声で行人を褒め称えるのを、行人は困った顔をして聞いていた。 「いや、わたしは何も。数字を作ってきてくれたのは係のみなさんですし、そもそも工場のみなさんの製造ありきですので……」  行人がそう珍しく謙虚に回答していると、聞こえよがしに声がした。 「そうだ。ひとの作ったものを右から左するだけの、キレイで気楽な商売だよ。なあ、額に汗して働いてるのはこっちだってのに」  翔太は声のした方に首を回した。工場長の周りを囲んでいる、製産課の誰かが言ったようだ。人事はそれを聞いて眉をひそめた。尋常な職場にあって、あまり褒められた言動ではない。  工場長が声のした方を向いてたしなめた。 「こら、お前らがそう感じるのは分からんでもないが、俺たちがいくらよいものを作っても、それを売ってきてくれる営業がいないと、給料にならないんだぞ。そのくらい弁えておけ」  わざとらしい工場長のもの言いに、翔太は不穏なものを感じた。果たして、工場長は一升瓶を手にこちらへやってきた。 「西川係長、ウチの者が不調法をしました。お詫びにどうぞ、一献」 「いや、わたしは酒は……」 「はい、はいはい、失礼ながら、係長の分は僕が代理で……」 「ばか。加藤、その辺にしとけ」 「大丈夫っすよー、係長~。工場長、どうぞこちらにお願いしまっす!」  翔太は行人を背に庇うように、工場長の前にコップを差し出した。工場長は翔太の差し出したコップが空でないのにいい顔をしなかったが、上の方の数センチ分だけ注ぎ足して去っていった。 「加藤くん……」  行人がさすがに心配そうに翔太を見ている。人事はいつしか次の群れへ移動していた。翔太はウィンクした。 「ここは日本ですからね。注がれるたびに呑み干してなんていられませんよ」  いつか、行人が翔太に言った。中国料理店で、彼の地では乾杯は文字通り杯を干すのだと。あれはいつのことだったか。翔太は少しボーッとした頭で考えた。 (あの、日、だ……)  あの日。翔太の人生が百八十度変わった日。諦めていた人生を、生き直そうと思えた日。すべて、このひとのおかげだった。  原田がこのひとを追い落とそうと狙っても、そらしてやる。工場長が意趣返しの機会をうかがっても、はねつけてやる。 (このひとは、俺が守るんだ)  翔太は心の中でそう熱く誓った。  何をさせても手早く最大の効果を上げる、このひとの手を止めないように。あらゆる邪魔ものを追い払うのが自分の役目だ。  翔太は壁に寄りかかって行人の横顔を眺めた。行人が汁粉の椀を呑み干した。白いYシャツの襟元でのどがぐびりと動くのが見えた。
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