8、空っぽの部屋で、たったひとりで-2

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8、空っぽの部屋で、たったひとりで-2

 そろそろ散会だ。総務部長の音頭で一本締めをして、お開きとなった。酒もつまみもまだ残っているので、残りたいものは残るし、帰るものは三々五々と帰っていく。 (あれ……?)  翔太は脚がだるくなって、その場にしゃがみ込んでしまった。心臓がドキドキする。行人が翔太をのぞき込んでいた。 「加藤くん?」 「……かかり、ちょう?」  帰り支度をした内海が通りがかり、翔太の様子を見て飛んできた。 「加藤さん? どうしたんですか?」  行人は口の前に指を立てた。 「しっ。……こいつ、酒、あんま呑めないんだよ。内海さん、悪いけどタクシー一台呼んでくれない?」  内海は携帯でタクシー会社に電話をかけた。車が来るのを待つ間、内海はキレイなコップに水を汲んできた。行人は礼を言って受け取った。 「ほら、加藤くん、飲めるか?」  行人は翔太の肩に手を置いて、その手にコップを手渡した。 「はい…………はあ、おいしい。スッキリしたあ。内海さん、ありがとう」  内海は翔太の手から空になったコップを受け取った。 「係長……意外です。ひとを介抱するの、慣れてらっしゃるんですね」 「内海さん……。俺をどんな人間だと思ってる訳?」 「いやあ、あはは……」  内海がごまかし笑いをしている間にタクシーが到着した。行人は翔太に手を貸して立ち上がらせ、翔太を支えて歩き出した。 「ユキさん、離してください。俺、もう大丈夫ですから」  翔太は小声でそう頼んだ。行人は面倒くさそうに一蹴した。 「ああ、いい、いい。今日は俺のために呑んだんだから。ここで俺が手を離したら、内海じゃないけど、俺が人非人扱いだ」  行人は翔太をタクシーに押し込み、そのあとで自分も乗り込んだ。行人は翔太の部屋の住所を告げた。タクシーは軽いエンジン音とともに雪道を走り出した。 「ユキさん、ユキさんが一緒にタクシーに乗るところ、誰かに見られてたんじゃありませんか?」 「ああ、そうかもな」 「ユキさん!」  もう、このひとは。脇が甘いというか何というか。優秀さを妬まれて、このひとの足を引っ張ろうとするひとがたくさんいるというのに。翔太は焦った。 「降りてください。地下鉄駅で降りてくれれば、多分誰かがそれを見る。運転手さん、そこの駅でひとり降ります」 「いいんだよ!」  行人はピシャリとそう言った。その剣幕に、翔太はびくりとして押し黙った。行人は運転手に行く先に変更はないことを伝え、あとはずっと無言だった。地下鉄を使わなければ、行人の住む街とは違って、会社からはかなりの距離になる。タクシーは雪道をひたひたと走り続けた。  恥ずかしながら足に来たとはいえ、翔太はかなりセーブして呑んでいた。タクシーが翔太の部屋に着く頃には、調子はおおむね戻っていた。ふんわりと雪の積もった外階段を、翔太は自力で登っていった。 「ショウちゃん、ホントに大丈夫?」 「大丈夫ですよ。ユキさん、心配性なんだから」  部屋のカギは行人が開けた。翔太が部屋に入るまで、行人はドアを支えて待った。 「ショウちゃん、自分で靴脱げる?」  そう訊きながら、行人は食器棚からコップを取り出し、翔太のために水を汲んだ。靴を脱いだ翔太がテーブルの前に座り込むと、行人は翔太の肩からかばんを外し、ストーブのスイッチを入れた。 「少し部屋が暖まるまで、コートは着てなね」  行人はそう翔太に言い渡し、冷蔵庫を開けて中身を確認した。大したものは入っていない。正月は留守にしたし、沖縄から戻って以来、行人が来るのは今日が初めてだ。 「ユキさん、お腹空いたでしょ。すみません、ロクな食料置いてなくて」  翔太はそう声をかけた。行人は軽く肩をすくめて「心配しなくていいよ、充分予想してたから」と返事した。  お汁粉は四時からだったので、いろいろあってもまだ早い。行人は食料品を買い込みに出かけた。部屋が暖まってきた。翔太はコートを脱ぎ、ついでに部屋着に着替えた。  行人は今日の夕食を鍋焼きうどんにしたようだ。汁粉とはいえ、中途半端な時間にものが入った胃袋に、そして酒が残る身体に、優しくって温まる。 「ユキさんは料理上手だなあ。ホテルのご馳走もよかったけど、ユキさんの作るご飯を食べるとホッとします」  翔太はそう言って素直に笑った。   行人は照れくさいような微妙な笑みを浮かべて、黙り込んだ。しばらく黙ってうどんをふーふー吹いていたが、おもむろに言った。 「ショウちゃん、俺のために無理しないで」 「ユキさん?」  行人は箸を置いた。 「俺のことはいいんだよ。俺はひとの悪意にも慣れてるし、槍玉に挙げられるだけのことをしてる自覚がある。嫌われるのを分かっててやってるんだ。だけど」  行人は翔太の頬に指で触れた。 「ショウちゃんに何かあったら、俺……。俺なんかのことは、放っといていいんだから。頼むから、俺より自分を大事にして」  翔太は自分の頬に触れる行人の指をそっと握った。 「同じですよ」 「ショウちゃん……?」 「俺も、ユキさんと同じ気持ちです。ユキさんのことは、俺が守ります。俺、ユキさんを傷つけようとするものは、返り討ちにしてやりますよ。この会社にいる限り」  行人の手から力が抜け、するすると翔太の指をすり抜けていった。 「……この話は、もう止めよう」  行人はうつむいてそう言った。 (ユキさん……)  このひとを傷つけたくない。できる限り守りたい。行人が翔太に「自分を大事にして」と言った、その気持ちと同じだと翔太は思った。  行人は本当に同じ気持ちだろうか。うどんをすする行人の長い睫毛を、翔太は黙って見つめていた。  松の内に、大切な取引先には一度顔を出しておきたい。  翔太たち一係員は、目も回るほどの忙しさだ。今年も恒例の業務用濃縮スープ三缶セットと、それから昨年開発の方で発掘した北陸の特別にうまい醤油と、相手先によって使い分けたり両方持っていったり。営業車に積み込むブツも大荷物だ。  実はこの醤油は、今年出す新製品への告知を兼ねている。「Pro'sキッチン」の洋食ラインナップに勇気づけられ、次は和惣菜のテコ入れを図ることになった。これまでの製品より格段に味のよい新製品には、この醤油を使います……とのひと言をしゃべって回る使命が、翔太たちには与えられている。 「係長……」  翔太は年始回りのスケジュールを行人に提出しようと立ち上がった。PCのモニターを見ていた行人は、どこか焦点の合わない目をして無反応だった。  無反応はいつものことだ。翔太は構わずスケジュールを書き出したA4用紙を行人の机に置いた。 「係長?」  行人はボーッとして返事をしない。 「係長!」  翔太は行人の視線を遮ろうと、遠慮がちにPCの前で手のひらを振った。周囲にヘンに思われないギリギリのところだ。 「……あぁ、加藤くん……」 「係長、どうしたんですか?」 「……いや、何でもない。年始回りな。分かった、今見るわ」  行人は翔太が机の上に置いた用紙を手に取った。行人にしては随分時間をかけて読み、数点指摘してすぐに翔太に返した。 (ユキさん、今日も元気ない……)  年始回りの挨拶品は、一階の調達部の机に積み上げてある。普段使っていない机なのに、翔太たちが長く置いておくと調達部を含め工場側が何かとうるさい。翔太は営業車を裏口につけて、のし紙もめでたいスープ詰め合わせと醤油を台車に積んだ。 「加藤さん」  内海が二階から降りてきて合流した。 「『台車&営業車裏口横付け』作戦ですか。さすがですね」 「ああ、内海さん、いいところに来た。ちょっと手伝ってよ。俺も内海さんの分を手伝うから」 「了解です! 車に積み込むとき、ふたりで組んだ方が早いですもんね」  翔太はかばんから、今日回る取引先の一覧表を取り出し、そこへ貼ったふせんに書いた数字を読みながら、同じ数の挨拶品を台車に載せてはふせんを別のシートに移す……という作業を繰り返した。翔太は細かい数字を覚えられず、脳内で数を把握しようとすると異常に疲れた結果たくさん間違うので、この方法で管理する。内海も見慣れたもので、とくに口をはさむことはない。  翔太が台車にふせんの個数分を載せていると、内海が言った。 「あれは、『彼女』ができましたねえ」 「へ?」  翔太は聞き返した。内海はにやりと笑った。 「係長ですよ」 「え!?」  翔太は手を止め、屈んでいた腰を伸ばした。 「何でそう思うの?」  内海は腕組みして厳かに言った。 「あの切れモノの係長があんなにボーッとしてるとこ、初めて見ましたよ。気もそぞろっていうあの感じ。あの集中力低下は、睡眠不足ですよきっと。毎晩彼女に情熱的に迫られてるんじゃないですか?」  翔太は微妙な笑いを浮かべた。 「そ……そうかなあ」 (いや、夕べ俺、ちゃんと早く寝かせたし。まあちょっと情熱的だったかもだけど、そんな何回も求めなかったし)  いかんいかん。油断すると頬が緩みそうだ。翔太は切り返した。 「きらり~ん、まだ若いのに、中身はもうリッパにおばさんだねえ」  翔太は感心するようにうなずいた。 「ありがとうございますぅ! てか、『きらりん』て何すか。そんなヘンな呼び方止めてくださいよ」 「いや、呼ぶね。そのおばさんキャラにぴったり合うのは『きらりん』だね」 「加藤さん! じゃあわたしも加藤さんのこと、ヘンなあだ名で呼びますよ」 「呼んでみー。俺の名前なんて平凡すぎて、どこをどうひっくり返したって変わった呼び方にならないから」 「きー、くやしい」  ポンポン言葉を交わしていると、翔太はふと懐かしい感じがした。内海はどこか菜摘に似ている。女きょうだいがいる翔太は、こうした軽口を女性と交わすのに慣れている。  翔太はハッとした。気難しいガンコおじさんの得意先に萎縮して頭を下げるより、話しやすい女性に営業して回る方が気楽で、かつ成績も上がるかもしれない。行人がスナックやラウンジを得意としているのも、もしかしたら同じ理由だろうか。翔太も行人も、昭和ガチガチのオヤジさんたちには受けない。多分、会話が成立しないくらいの別人種だと見抜かれてしまうからだろう。原田は逆に、そういう昭和オヤジは大得意だ。  翔太と内海、二台分の営業車に荷物を積んで、翔太は内海に手を差し出した。 「お疲れ、ありがとう」  内海はちょっと戸惑った表情を見せたが、笑顔になって翔太と握手した。 「今日は原田さん一緒じゃないの?」  翔太がそう訊くと、内海は少し笑って答えた。 「はい、今日原田さんは別動で、公共交通機関移動です」 「ふーん」  この年始に? 挨拶品はスープ缶だぞ。それか醤油。何か別立てで軽い挨拶品を用意してでもいるのだろうか。   まあ、いい。自分には関係ない。翔太は内海に手を振って車を出した。
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