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8、空っぽの部屋で、たったひとりで-3
昨日はスープ缶と醤油が重かった。翔太はよいアイディアを思いついた。
「係長、ちょっと思いついたんですけど」
行人は返事をしない。いつものことと思った翔太は、いつものようにA4用紙を携えて係長机の前に立った。
「係長、お忙しいところ済みませんが、ちょっとこれを見ていただけますか?」
行人はとろんと甘やかな瞳で翔太を見上げた。
「……ん? 何?」
(ちょっとユキさん、仕事モード仕事モード!)
翔太はコホンと咳払いして、提案内容を説明した。
「昨日、ウチのド定番のスープ缶を運んでて思ったんですけど」
「……うん……」
行人はだるそうに翔太の差し出したA4用紙を取り上げたが、次の瞬間それを机の上に戻した。机に肘をつき、書類を精読するふりをして額を押さえている。
翔太は追加情報を書き出した体で、A4の紙をもう一枚用意し、そこへみどりのふせんを貼った。ふせんには『熱、ありません?』と書いた。
翔太がそっと行人の視界に紙を重ねた。行人は追加の用紙にも目を通し、自分のふせんを一枚剥がしてこう書いた。
『少しな。大丈夫だ』
(やっぱり……)
昨夜、行人は翔太の部屋には来なかった。疲れてるようだから、自宅でゆっくり休んだらいいと翔太も思ったのだが。
(昨日よりも悪くなってる)
「挨拶回りに、『Pro'sキッチン』から『野菜たっぷりミネストローネ』ね」
行人はいつもより弱々しい声でそう言った。
「はい。『ミネストローネ』なら自社製造で、原価もほかのものより低いですし。小分けですので、もらった先も、社員で分けるなり、社内で消費するなり、処分しやすいかと」
翔太はかしこまってそう説明した。行人は幾分笑顔になった。
「いいアイディアじゃないか。惜しむらくは、それを二ヶ月前に思いつかなかったことだな」
「あちゃー」
翔太はおでこをピシャリと叩いた。
「いや、だが、いい案だ。来年の年始回りには採用できるよう、俺から上に上げておく」
「お願いします」
翔太は頭を下げて自席に戻った。
翔太と入れ替わりに、原田が立ち上がった。
「じゃ、係長。そろそろお願いします」
「ああ。はい、分かりました」
原田は「車回しておきますんで」と言って部屋を出ていった。
翔太は内海と顔を見合わせた。
行人はロッカーからコートを取り出して、スーツの上に羽織った。いつものコートなのに、重そうだ。自席からかばんをだるそうに取り上げ、「じゃ、行ってくる」とふたりに告げた。
「珍しいですね。あのふたりが同行営業なんて」
内海が声を潜めて翔太に言った。
「そうだよね。どこへ行くのかなあ」
翔太はハラハラした。
原田は行人に何をさせる積もりなのか。原田は体調の万全でない行人を思いやるような繊細さを、持ち合わせてない。
内海は答えた。
「秋津物産さんらしいですよ」
「ええっ!? 秋津さんなら、きらりんだって担当じゃない。何であのふたり?」
内海は首を傾げた。
「なんかあ、担当だけじゃなくて、その上も出てくる話だそうで。だからこちらも上長と同行するんだとか。なんつーか、カウンターパート?」
「へええ……。そういうのって、普通、クレーム対応のときとかじゃない? 何かあった? 秋津さんで」
「いいええ。さすがにそれなら、わたしの耳にも入るはずです」
「だよねえ」
ここで心配していても、何の足しにもならない。ならないが、やはり気になる。
法人営業では、額や規模が大きくなると、一担当社員では話が進まなくなることもある。とにかく上司が出ていけば、それで突破できるタイミングだ。もし原田が今そういう案件を受注しようとして、それで挨拶回りにかこつけて行人を連れ出したのだとしたら、原田のプライド的にはそれをあまり公言したくないかもしれない。
翔太は(自分は自分の仕事をしよう!)と気分を切り替え、内海を誘ってお互い今日回る先への挨拶品を車に積んだ。
雪が止み、積もった分が解けだして、運転しやすい道になった。路肩の排雪が少しずつ行き渡り、幹線道路が二車線回復したので渋滞がなくなった。翔太は今日回る先へ挨拶品を配り終え、思っていたより早く社に戻れた。書類を整理して日報を書くには、珍しく時間の余裕がある。集中して、来週からのスケジュールを組むことにした。
いつどこで誰と何をして、その次には……といった点を線につなげていく作業。翔太はそれがどうにも苦手だ。一方行人はこうしたことがとても得意で、自分には軽々とできることを、翔太がうんうん唸ってがんばっているのが、可愛くてしようがないらしい。だから、予定や段取りを組む作業では、行人はとりわけ翔太に冷たく当たる。行人に冷たくされても、その裏にある本当の感情を知っている翔太は平気だが、入社三年、そろそろ行人の手を煩わせず業務をこなせる自分になりたかった。
しばらく席を立たずに集中できるよう、翔太は手洗いを済ませ、飲みものも準備して取りかかろうと思った。翔太が手洗いから戻る途中、廊下の向こうから企画課のPTメンバーが駆け寄ってきた。
「加藤くん! おたくの西川係長は?」
「は?」
翔太が目をパチクリしていると、企画課のひとはこう続けた。
「今日十五時からPTの打ち合わせが入っているのに、いないんだよ。社用ケータイもつながらない。こんなことは初めてだ。何か仕事が入って抜けられなくても、必ず連絡をくれるひとなのに」
翔太も事態の重大さに気付いた。
「それは、確かにおかしいですね」
「だろ? 君なら彼の個人ケータイ知らないかい? ああ、いくら西川でも、社用ケータイを忘れて出ることもあるかな」
「いや、それはないです。係長の机の周りで着信音は鳴ってませんでした」
翔太は、行人の個人ケータイにかけてみると請け合って、自席に戻った。かけてみたが、出ない。翔太は次に、原田の社用ケータイにかけた。壁の時計は、十五時二十分を指している。
(はい、原田。おー加藤、どした?)
原田の呑気な応えに苛立ちながらも、翔太は口調は丁寧に「行人とはそのあとどうしたのか」を尋ねた。
(西川さんとは二社を一緒に回って、石山通りで下ろした)
「下ろした?」
(ああ。そう指示されたからな。言われた通りにしたぞ。っていうか、何だよ。何かあったのか?)
「いえ」
翔太は原田に礼を言って急ぎ通話を切った。
あの熱で、街なかでひとり車を降りて、行人は何をしているのだろうか。念のため入れておいたLINEも一向に既読が付かない。
(ユキさん……どこにいるんですか)
翔太は机で頭を抱えた。今朝の行人の様子、昨日からの様子が思い出される。明らかに体調が悪そうで、熱があって、翔太を見上げる瞳も焦点が合ってなくて……。
机の上で電話が鳴った。翔太はビクリと身体を起こした。総務から内線だった。受話器の向こうから、甲高い声が事態を告げた。
(市立病院から、西川係長が事故に遭って運び込まれたって連絡が……)
そのとき同時に、部屋の奥の課長席から、課長の村木が手に受話器を持って立ち上がった。
「西川くんが事故だって!」
翔太は総務から詳細を聞き、受話器を置いた。村木課長がドスドスと早足で歩いてきた。
「とりあえず加藤くん、病院へ行ってくれないか」
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