8、空っぽの部屋で、たったひとりで-4

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8、空っぽの部屋で、たったひとりで-4

 総務に聞いてきた病棟へ。壁の案内板を横目で確認して、翔太は周囲の迷惑にならないギリギリのスピードで病院内を小走りに進んだ。  目当ての病棟に入り、ナースステーションにいた看護師に息せき切って声をかけた。 「あの、連絡いただいたアサヅカフーズのものですけど、西川行人さんは」  肩で息をする翔太に笑顔を向けて、看護師は親切に病室を教えてくれた。 「熱が高いだけで、ケガはかすり傷ですよ。安心してください。念のため今夜ひと晩泊まってもらって、何ともなければ明日お帰りいただきます」  翔太は「どうも」と短く頭を下げ、教えられた病室に飛び込んだ。 「ユキ!」  ガランとした病室。上半身を少し起こしたベッドに行人がいた。翔太は速度を緩めることなく駆け寄った。 「このばか!! 何やってんだ! 熱があるのに外回りに出たりして」  行人はまぶしそうに目を細め、翔太を見上げた。 「ショウちゃん、初めて『さん』付けじゃなく、名前呼んでくれたね」  行人の熱に潤んだ瞳にドギマギして、翔太はうつむいた。もごもごと、 「原田なんか、今日じゃなくたっていいじゃないか」 と言って、ベッドの縁に腰かけた。  窓の外でドサッと音がした。枝に積もった雪がまとまって落ちた音だ。枝に残る雪は、陽気に解けかけてキラキラ光る。  行人は薄く笑った。 「ショウちゃん、俺ね、ずっとショウちゃんに愛されたかった」 「ユキ……」  行人は長い指で顔を覆った。 「尊敬されたかったんじゃない。俺のこと、好きになって欲しかったんだ」  行人の指の間から、透明に光る涙が幾筋もこぼれた。  翔太は行人をのぞき込むように、そっと行人の濡れた指に触れた。 「……ユキ、アサヅカ辞めるの? 俺から離れたくなった?」 「原田だな」  行人の声は涙に湿っていた。 「うん」  翔太は素直に答えた。  行人は顔を覆ったまま、深く息をついて呼吸を整えた。呟くような声が指の隙間から漏れた。 「俺、もうどうしていいか分からなくなって」  翔太は行人の顔をのぞき込んだまま、黙って耳を澄ませた。 「ショウちゃんのことがすごくすごく好きになって。もう会社で今まで通りにできないかもしれない。部署を離れて、代わりに一緒に住もうと思っても、同じ会社にいるうちは同じ住所って訳にもいかない。だったらいっそ別の会社にって……」  翔太の胸の真ん中が圧し潰されたように痛んだ。 「どうして俺にそう言ってくれなかったんだよ」  行人は顔を覆った指を、こぼした涙ごとギュッと握りしめた。 「だって、ショウちゃん、いつまで経っても俺を好きになってくれないんだもん」 「ユキ……?」 「だから俺、がんばったよ。ショウちゃんを俺につなぎ止めておけるのって、仕事とセックスだから。この二つだけは絶対押さえておかなきゃと思って。それから次に、胃袋と」  行人はそこで笑ってみせようとしたが、くしゃと歪んで泣き顔になった。 「ひどい謂われようだな」  翔太も笑おうとしたが、笑えているかどうか分からなかった。 「なのに……、ショウちゃんは……」  行人は深く俯いて、膝の上で拳を握った。  翔太も自分の膝を見ながら、言った。 「歴史上の人物とかじゃなく、現存する人間で尊敬なんて普通ないよ。好き嫌いで言ったら好きってひとは何人もいるけど、『尊敬』は、その中の特別、特別中の特別ってことで」  行人はゆっくりと顔を上げた。 「ショウちゃん……?」  翔太は深呼吸して、窓の外を見た。雪をかぶった枝の向こうに、夕焼けが広がる。 「でもそれは、あくまで俺の言葉だったんだな。ユキに俺の言いたいことを正確に伝えるには、ユキの言葉で言わなきゃいけないんだ。ちゃんと翻訳しないと」  翔太は行人の頬の涙を、指で拭った。 「ユキの言葉で言うよ」  行人の長い睫毛が震えた。翔太の指も。 「ユキ……好きだ」  翔太はそっと行人の頬を撫でた。 「ショウちゃん……」 「俺、人生を諦めてたよ。ずっと死ぬまで独りでいるんだと思ってた。なのに……」  あの夏の夜。行人の言葉で、この世の全てが裏返った。新しい視界、新しい感情、新しい人生。 「ユキがいてくれて、俺を大事にしてくれて。本当に嬉しかった。だから俺も、ユキを大事にしたいって。守って、笑顔にして、ずっと一緒にいてもらえたらって」  行人の目から、またポロポロ涙がこぼれた。透き通った、キレイな、涙。キレイな長い睫毛の間から流れる。行人の唇が小さく動いて「ばか」と言った。翔太は黙って行人の声を聞き漏らすまいと息を潜める。 「遅いよ」  行人はそう言って、今度こそ小さく笑った。嬉しそうに睫毛を揺らして。翔太がずっと見たかった、行人のキレイな笑顔――。  翔太は一泊入院に必要な物品を下の売店で買ってきた。行人は「あとで自分で行くからいい」と言ったが、翔太はそうさせなかった。熱があり、めまいもするようなのだ。翔太は行人を大切にする。自分にできる限り、最大限に優しくする。ずっと前からそう決めていた、その通りに翔太はする。ふたりの時間の果てが来るまで、ずっと。  窓の外が暗くなっていた。翔太は時計を見た。 「ヤベ! 俺、一旦社に戻らなきゃ」  翔太は慌てて立ち上がった。総務に営業車を返さなくてはならない。翔太は明日迎えに来ると約束して、大慌てで病室を後にした。  高熱でふらついた行人が信号待ちのさなかに倒れ、左折してきた車に当たった。これが事故の概要だった。  左折車はツルツルした凍結路面を最徐行していたため、軽くミラーの角に接触しただけで大した衝撃はなく、ケガというほどのケガはなかったのが幸いだった。当たったはずみに地面に倒れて頭を打ったので、念のためひと晩観察するための入院だ。  大急ぎで社に戻った翔太は、以上を行人の直属の上司である村木課長に報告した。それと同時に、明日の有休を申請した。本来自分が出向くべきところを、部下の翔太が動いてくれると知って、村木は感謝した。村木は他部門との調整役や、取引先への顔の広さで課長職に就いているが、行人の仕事ぶりのどこが前例のない数字を叩き出しているか、その仕組みを理解できない。優秀な部下を嫌いではないが、どう接してよいか決めあぐねている。翔太は日頃から、村木の行人への態度からそう見当を付けていた。  自分の島へ戻ると、翔太の村木への報告を聞いていた原田と内海が、もっと詳しい事情を知りたがって待ちかねていた。 「おうおう、加藤。結局係長って何で事故ったんだ?」  翔太は頭に血が上りそうになった。怒りを抑制するのに深呼吸して、わざとゆっくり原田に言った。 「原田さん、今日は秋津さんに係長を連れていって、どんな話をしたんです?」 「ええ? いやあ、大口の得意先だから、俺ひとりじゃなく上司を連れて丁重にご挨拶したよ」 「それだけですか?」 「え?」  原田は手許の缶コーヒーに手を伸ばし、グビリとひと口飲んでから答えた。 「いや……係長の引き抜きの話あったろ。あれの真偽を確かめたくて、直接ぶつけてみたんだ」 「ぶつけてみた……?」  原田は悪びれずこう言った。 「ああ。向こうの担当と、札幌支社長に、挨拶を口実にアポ取って。あの会社、北海道の人事は支社長に権限があるのは知ってたから。もし秋津が西川に声かけてるなら、支社長が知らない訳はない。連中を直接会わせて、反応を見ようと思ったんだよ」 (そんなくだらないことのために……)  翔太はいつもより字数の少ない日報を係長席のトレイに置き、帰り支度を始めた。 「何だよ加藤。お前だって気にしてたろ。結果を聞きたくないのかよ」  原田は変わらず翔太を共犯だと思っている。翔太はにっこり笑って言った。 「係長はかなり具合悪かったみたいです。高熱をおして部下のために挨拶に出向いて、その結果労災ってことになったら……、まあそこから先は、俺みたいな下っ端の考えることじゃないっすね」  原田は二の句が継げず口をパクパクさせた。翔太の返答は完全に想定外だったと見える。  「じゃ、お先に失礼しまーす。あ、俺、明日有休取るんで、よろしくでーす」  翔太は軽く頭を下げて席を立った。  階段を降りようとするところで、内海が追いかけてきた。心配そうな顔をして翔太に尋ねた。 「加藤さん、係長は大丈夫なんですか?」  内海は原田と違って、どうやら本当に行人の身を案じているらしい。翔太は口を開いた。 「ああ。さっき課長にも報告した通り、ケガはかすり傷程度で大したことない」  内海はホッとして胸を撫で下ろした。 「よかった……。事故なんて言うから、わたし……」  翔太は下り階段に足をかけ、内海を見上げたまま黙っていた。 「加藤さん」 「ん?」 「もしかして、怒ってます?」 「どうして?」 「さっきの加藤さんの笑顔、ちょっと怖かったです」  翔太は苦笑した。よく気の付く女性だ。 「きらりんてば、ホントおばさんだね。よく見てるわ」  内海はなおも食い下がった。 「確かに原田さんも無神経でしたけど、それはいつものことですよね。わたし、加藤さんって係長のこと苦手なんだと思ってました。でも」  翔太は内海の言葉を遮るように、片手を上げて階段を降りた。 「ああいうひとだけど、もう三年も一緒に働いてるんだ。マジで苦手だったらとっくに逃げてるさ」  内海は手すり越しに翔太に言った。 「お疲れさまでしたー」  翔太はもう一度片手を上げて答えた。 「おー。きらりんも早く帰れよ」  外へ出ると、月が解け残った雪を照らして明るかった。行人も、あの病室で同じ月を見ているだろうかと、もし見ていたら嬉しいと願いながら、翔太は夜の冷気に固まりかけた道を、ザクザクと踏みしめ地下鉄駅へ向かった。
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