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8、空っぽの部屋で、たったひとりで-5
ひと晩の観察でとくに異常は認められず、行人には退院の許しが出た。翔太は自分の部屋に預かっている衣類から、行人の着替えを持っていった。行人は仕上げに昨日着ていたスーツを身につけた。
「じゃ、行こうか」
翔太は行人の荷物を手に提げ、先に立って病室を出た。
会計を待つ間、行人は翔太に訊いた。
「ショウちゃん、今日はどうやってここへ来たの?」
翔太は行人とあまり身体を近付けないよう注意しながら、椅子へ座った。
「地下鉄で札駅まで来て、そこからJRに乗り換えて。でも、大した距離じゃなかったな」
病院の最寄り駅には快速が止まらない。待ち時間がかえって無駄だった。歩いても所要時間は変わらなかったと翔太は思った。
「あ、でも」
翔太は付け加えた。
「ユキは熱があるから、帰りはタクシーな」
「はいはい」
行人は笑ってうなずいた。
行人の熱は下がって、微熱の範囲になっていた。だがまだ無理はさせられない。病院の前で列をなしていたタクシーに乗り、行人が告げた住所へと走らせた。
タクシーに揺られながら、翔太はあることに気付いた。
(あれ……? そういえばユキって、家族と暮らしてるんじゃなかったっけ)
タクシーは市場を抜けていく。看板のあっちにもこっちにも、取引先の屋号が踊る。
(じゃあ、俺、ユキのご家族にご挨拶しなきゃなんないの? ……まあ、いいか。「部下です」っつって、玄関先で引き渡してくればいいんだもんな)
ちょっと淋しいが、仕方がない。行人は何も言わずに窓の外を見ている。
タクシーは立派なマンションの前に停まった。オートロックの入り口を通り抜け、カツカツ響く床を歩くとエレベータの前に出る。行人は十二階まであるボタンの八階を押した。
「ふえー、ユキ、すごいとこ住んでるね」
行人は無言のまま曖昧に笑った。
「ここだよ」と行人がカギを開けた部屋に入ると。
アイランドキッチンのリビング側がカウンターになっていて、細身のスツールが二脚置かれている。ベランダを背にソファがあるほかは、何もない。二十帖近い広さだと思うが、テレビもない、ガランとしたリビングだった。
「ユキ……ここに、独りで住んでんの?」
翔太は思わずそう尋ねた。行人は翔太を横目でチラと睨んで言った。
「何を言いたいか大体分かるぞ。誰とも同棲したことないよ。オヤのマンションを相続したの」
「相続……」
行人は部屋の暖房を入れ、台所でポットを火にかけた。造りのしっかりしたマンションは、ひと晩留守にしてもそんなに冷えない。行人は翔太の着ていたグレーのPコートを受け取り、自分のコートと合わせて玄関のクローゼットにかけた。
「オヤのものがごちゃごちゃとあったけど、全部スッキリ処分したから」
翔太は行人を振り返った。
「全部?」
「うん。両親はずいぶん前に離婚してて、父親にはずっと会ってなくてね。父は独りでいたみたいで、相続人は俺ひとり」
行人はキョロキョロと見回す翔太にくすりと笑って、奥のドアをひとつずつ開けて案内した。広い寝室には、キングサイズのベッドがでんと置かれていた。南向きの明るい部屋に、焦茶で統一されたリネン。行人らしいお洒落な配色だ。
「ユキ……こんな広いベッドがあって、俺のシングルに泊まりに来てたの?」
リビングに近い広さの寝室には、やはり大した家具はなく、小さな本箱にひと並べ本があるだけだった。それと、壁に立てかけられた、ギターが一本。
何もない部屋だった。
翔太の胸のどこかがズキンと痛んだ。
(こんな広い空っぽの部屋で、ユキはずっと独りで……)
「ああ、ものを全部処分したとき、寝るとこだけは広くしようと思って」
台所でカタカタとポットが鳴った。
「ショウちゃん、コーヒー飲む? 豆がちょっと古いかもだけど」
「うん。あ、俺、淹れようか」
行人はくすりと笑って台所に立った。
「いいよ。ショウちゃんは座ってて」
まだ熱のある行人にやらせるのは気が引けたが、行人が出してきたのはドリッパーとコーヒーミル。翔太の力が及ぶところではない。行人はカウンターに翔太を座らせ、嬉しそうにポットを傾けた。
翔太は広いベランダを振り返った。レースのカーテンの向こうには山並みが広がる。翔太は「すごい景色だねえ」と感心した。
「はい、お待たせ。コーヒー入ったよ」
行人は揃いのコーヒーカップの片方はブラックで、もう片方は翔太の好みの配合でミルクを入れてカウンターに並べた。翔太がカップをじっと見ているのに気付き、行人はくすぐったそうにまた笑った。
「このカップは何年か前の、結婚式の引出物。普段使うことないから、初めて使った」
行人はコーヒーをひと口飲み、「結婚式なんて、出るばっかりでソンだよね」と歌うように言った。翔太はカップに口をつけた。やはり行人の舌は肥えている。行人が選んだものはどれもおいしい。行人がカウンターに肘を突いて笑った。
「ショウちゃんって、結構ヤキモチ焼くよね」
翔太はぐっと答えに詰まった。コーヒーをくぴくぴ飲んで、ようやく言った。
「しょうがないじゃん。ユキのこと気になるんだもん。嫉妬深い男は嫌い?」
行人は首を振った。
「カワイイ。嬉しいよ」
造りが頑丈なのか、高層階だからなのか、静かな部屋だった。翔太の木造二階建てのアパートは、幹線道路から離れているのにいつも車の音がしているのと、対照的だ。翔太はコーヒーカップを皿に戻して、言った。
「何で今まで俺を入れてくれなかったんだよ。俺、てっきりユキは親御さんと暮らしてるんだと思って、遠慮してたのに」
行人もカップを置いて、目を伏せた。
「ショウちゃんが引いちゃうんじゃないかと思って。ただでさえ『尊敬してる』としか言ってくれないのに、距離置かれちゃったらどうしよう……って」
それは、翔太が行人に伝わる言葉を使わなかったからだ。翔太は素直に「ごめん」と謝った。
翔太は行人の方に向き直り、言った。
「でもさ、俺、ユキのこと好きだとしか取れないような言動してたと思うんだけど。気持ち、隠してなかったし。それなりに表現してたはずだよ」
行人もスツールを回し、翔太の正面を向いて言い返した。
「でも、はっきりそう言ってくれた訳じゃない。ショウちゃんは恋愛経験少ないから、流されてるだけかもしれないし。だからこそすごい勢いで流しきっちゃおうとがんばったんだけど」
行人は肩を震わせた。
「もしかして思わせぶりなだけかもしれない。俺をメロメロにさせといて、実はそんな気なかったなんてことになったら……」
「ユキ……」
「そんなことになったら、俺、生きていられないから……」
行人はスラックスの膝の辺りをギュッと握って下を向いた。
翔太は大きくため息をついた。
「何だよぉ。結局俺らってただの、普通の、大恋愛だったんじゃん」
翔太はそう言って、行人の顔をのぞき込んだ。行人の頬が見る見る赤く染まった。
「だからさ、そういうことサラッと言っちゃうショウちゃんに、俺は毎回胸を撃ち抜かれてるよ」
行人は赤い顔を隠すように、「着替えてくる」と奥の寝室に消えた。
翔太はふたり分のカップを洗って、ふきんで拭いた。食器棚を開くと、カップの分だけ隙間が空いていた。そこへそっと華奢なカップを収納すると、クリーム色のセーターに着替えた行人が戻ってきた。
「ユキ、熱は? だるくない?」
「うん、平気。今日はずいぶんいいよ」
行人はソファに身体を預けた。翔太が心配そうな顔をしたせいか、行人は言った。
「たまにこういうことあるんだよ。四、五年に一度くらい。疲れると熱が出るんだ」
翔太は台所で首を振った。
「違うね。疲労ってことで言えば、おととしのPT立ち上げのときの方がユキは疲れてた」
「ショウちゃん……」
翔太は台所を離れ、行人の許へ歩み寄った。
「疲労だけじゃないよな?」
「ショウちゃん」
「俺のせい……だよな」
翔太はソファの行人の隣に腰かけた。
「俺がハッキリしなかったから。ユキを不安にさせたよな。ごめんな」
翔太は行人の前髪をかき上げ、そっと自分の額を押し当てた。
「まだ少しだけ熱いよ、ユキ」
行人は翔太の背中に腕を回した。
しんと静かな部屋だった。ガランと何もないので、微かな音が壁に響く。外を冬の風が吹いた。風は窓ガラスを揺らして、暖房に曇りがちな街の空気を洗い流していく。
「……ショウちゃん」
「ん?」
「ここにおいでよ」
「ユキ?」
行人は翔太の背中を握った。
「淋しいんだ。ここに独りで住んでるの」
翔太は耳許に行人の声を聞きながら、行人が帰っていったあとの自分の部屋を思い出した。狭いベッドに独り取り残される、あの感じ。それを行人はこの広い部屋で。
「おかしいよね。ショウちゃんに会うまでは、そんなこと、感じたことなかったのに」
誰かを好きになるって、そういうことなんだ。翔太は無言で行人の髪を撫でた。
「今のアパートは荷物置きに借りとくか、もっと家賃安いワンルームに借り換えるかして。住所はさすがに同じって訳にいかないから。そっちの家賃は俺半分出すよ」
行人の提案は現実的だった。翔太は首を振った。
「ここのマンションだって、固定資産税とか管理費とかかかってるだろ。家賃はいいよ。でも」
「ん?」
「ユキ……じゃあ……」
翔太は身体を少し離して、行人の表情を確かめた。行人は真っ直ぐ翔太の瞳にこう言った。
「うん。辞めない。ショウちゃんが一緒に住んでくれるならね」
行人は翔太の頬を両手ではさんだ。
「昔の言葉でさ、『一緒になる』ってあるだろ。意味分かる?」
「ユキ」
「ショウちゃん、俺たち、一緒になろう」
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