8、空っぽの部屋で、たったひとりで-6

1/1

1039人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ

8、空っぽの部屋で、たったひとりで-6

 翔太は自分のアパートに戻ってきた。行人の広いマンションを見たあとだと、一段と狭苦しくてガックリする。  翔太は壁のカレンダーを確認した。週末にはレンタカーを借りて、身の回りのものを運び出そうか。  部屋の中を見渡すと、何かとものが増えていた。この際、要らないものをバッサリと処分するのも、いいかもしれない。高校卒業と同時にこの部屋に越してきて、七年が経っていた。この街に来てからの半分近くを、行人とともに過ごしてきた計算になる。  これからは、行人と一緒の時間が増えていく。札幌に来てからの時間の半分を越し、生まれてからの時間の半分を越して。翔太はめまいがしそうになった。そんなことを考えるのを自分に許したのは、初めてだ。いつか終わるのだと思っていた。そしてまた独りの人生に戻るのだと覚悟していた。若い時分の今この刻だけ、行人の気まぐれで、数年だけ幸せの真似ごとを味わうのだと、心のどこかで諦めていた。  それはシンデレラの魔法と同じ。刻を告げる鐘が鳴ると、夢のような時間は終わる。  行人に「好きだ」と言えなかった翔太は、本気で好きになって、終わりの刻に傷付くのを怖れていたのだ。あんなに本心をさらけだしてくれていた行人なのに、愛されることが幸せすぎて、それを失う日が怖ろしかった。  翔太は動揺していた。どうしようかとまだ迷っていた。本気になって、一緒に暮らして、ダメだったらどうしよう。別々に住んで、楽しい時間だけを切り取って一緒に過ごしていれば、何ごともなかったようにまた独りの生活に戻れる。あんなに「一緒に住みたい」と願っていたのに、いざああ言われてしまうと、決心がつかない。  この部屋を引き払いさえしなければ、またいつでも戻ってこられるから。だからこの部屋を保険として、試しに一度行ってみようか。  翔太は机の上に飾っていたウミガメのぬいぐるみを手に取って、つぶらな瞳に話しかけた。 「うーちゃん、俺と一緒におヨメに行こうか。一緒に行ってくれる? キミを連れ帰ってくれたひとのとこだよ」  ウミガメだから「うーちゃん」。沖縄からの帰り道、行人とそう名付けた。 「おヨメか、おムコか、どっちか分かんないしどっちでもいいけど。ねえ、うーちゃん」  うーちゃんは初めて出会った日のままに、にこにこと笑って答えない。  翔太はぬいぐるみを机に戻し、スマホをつかんだ。 『俺、おヨメに行くかも』  そう菜摘に打ってみた。すぐに既読がついて返信が来た。 『へー。あんた、家事できんの』 『多分、やらせてもらえないんじゃないかな。てか、洗った髪乾かすのとか、爪切るのとかも、自分でやらせてもらえない気する』  一瞬の後に、菜摘からは『Go to Hell!』の文字とともに親指を下に向けたスタンプが届いた。翔太はプッと吹き出した。  ひとり分の茶を淹れてみる。今日は行人がいないので、手抜きをしてティーバッグだ。湯気に気を付けながらバッグのしずくを切っていると、スマホが鳴った。 (あ、翔太?) 「菜摘ちゃん……」 (何? あんた、プロポーズでもされたの)  おっと。菜摘といい内海といい、女子はどうしてこうも直球なんだろう。翔太はたじたじとなった。 「……うん。そんな感じ」  菜摘はひとしきり悔しがったあと、優しい声でこう言った。 (よかったね。翔太はいい子なんだから、いいひとと幸せになれるよ) 「うん……ありがと」  翔太の歯切れが悪いので、菜摘はツッコんできた。 (何。あんた、まだ何かあるの) 「……俺なんかでいいのかなって、思うんだ」 (はあ?)  菜摘の声が跳ね上がる。 「のろけだって思われると思うけど、そしてその通りではあるんだけど」 (うん。腹立つけど、いいよ。続けて)  翔太は自分の気持ちをひとつずつ整理しながら、ポツポツと語った。 「前にも言ったと思うけど、そのひとホントにイケメンで、カッコよくて、すっごい優秀なひとなんだよね。その上、よく気の付くひとで、優しくて……。俺、ムチャムチャ溺愛されてんの。俺が何をしても、何か言っても、『カワイイ!』って喜んでくれて。料理もうまいし、俺の好みとかもう完璧把握してて、どこ行っても俺の好きなものを、絶妙のバランスで注文してくれる。俺、物覚え悪いけど、何度でも丁寧に教えてくれて、ここぞってところでは必ずフォロー入れてくれて」 (…………)  受話器の向こうから菜摘のイライラが伝わってくる。翔太は続けた。 「あんなカッコいい、仕事のできる、よく気の付くひとが、何で俺なんかって……」  翔太は泣きそうになった。そうか、これが核心か。 「だって、そのひと、若い頃バンドとかやってたんだよ。モテまくってたろうし、俺なんかよりずっといい男と、たくさん付き合ってきたに決まってるんだよ」  翔太はグスッとすすり上げた。 「じゃあ、何で俺なんかって。比較されたら、絶対敵わないのに……!」  菜摘は大きく息を吸い、投げやり気味に言い放った。 (だからなんじゃないの!) 「菜摘ちゃん?」 (何言ってんのよ、ばかね。そのイケメン、今までいっぱいモテてたんでしょ? その上で、『翔太がいい』って判断したんだから。それだけの経験があるから、あんたの良さを理解できたってこと。もっと自信持ちなさいよ。っていうか、そのひと、あんたのことが好きなのよ。だったら側にいてやりなよ。あんたもその彼氏も、幸せになる権利があるんだから)  翔太は「そっかな……」と呟いた。 (そうよ。もう迷うの止めて、とにかくヨメにでも何でも行っちゃいなさい。あれこれ考えてると、あっという間に歳を取るから)  最後の方は、きっと自分への反省だ。翔太は笑いをこらえて「分かった」と返事した。 (翔太?) 「ん?」 (……おめでと)  昔から大の仲良しだった姉。翔太はこの姉が大好きだった。 「ありがとう」  通話を切って、菜摘のマシンガントークで疲れた耳を指でさすった。 (そっか。幸せになっても、いいんだ)  翔太は紅茶の香りの中でそう思った。胸の中のいびつな空洞に、ぴったり合うピースが嵌まった気がした。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1039人が本棚に入れています
本棚に追加