9、ふつつかものですが、愛してます-1

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9、ふつつかものですが、愛してます-1

「ご心配をおかけしました」  行人はそう行って深々と頭を下げた。  一係の原田、翔太、内海は、上司の復帰を祝ってパチパチと拍手した。各自の席には焼き菓子が配られている。会社を休んだ二日間の詫びに行人が差し入れた。翔太が選んだマドレーヌ。行人のマンション近くのスーパーで、前日食料品のついでに買ったものだ。  さっそく行人の不在期間の報告を兼ねて、打ち合わせだ。各自年始の挨拶回りの報告、原田が受注した新規案件と、係の業務は滞りなく進んでいる。  行人は居ずまいを正して発表した。 「早速ですが、春から新入社員がやってきます」  もうそんな時期になるのか。翔太はこの一年、いや三年を振り返りそうになった。ポケッといろんなことに思いが散ってしまうのを食い止めるため、椅子の上で背筋を伸ばした。 「まだ最終調整が残っていますが、新入社員育成プランの策定がありますので、早めにお伝えしておきます」  相変わらず、行人は仕事が早い。多分、時間を見通す視力がいいんだと翔太は思う。時間と空間の把握能力がずば抜けて高い。自分はこの辺がとくに抜けているので、だから行人にフォローしてもらえてラッキーだ。 「四月から、加藤さん、新人とペアを組んで育成を担当してください」 「えっ? ……は、はい」  翔太は驚いた。事前に何も聞かされていない。プライベートで仕事の話はしないとはいえ、行人からはこれまで打診もなにもなかった。信頼、されているのだろうか。 「準備として、今日から基本、ひとりで動いてもらいます。新人育成のコツについては、原田さんにも取材して、いろいろ教わっておくように」 (そうか……もう俺、ユキとのペアは解消なんだ……)  淋しいが、いつかそうなることは決まっていた。それに、仕事上のペアを解消しても――。 「内海さんは、四月からわたしがフォローします。それまでに、原田さんのノウハウをしっかり吸収してください。原田さんはこのふたりに、ノウハウの継承をお願いします」  原田は「任せてください」と胸を叩いた。翔太は思わず疑問を口にした。 「じゃあ、原田さんは……?」  行人は数度うなずいて、言った。 「まだ内々ですが、新設される営業二課二係の係長に昇進の予定です」 「そうなんですね」  翔太と内海は拍手した。原田は頭を掻いて「いやあ、どうも」と珍しく恐縮する。 「『Pro'sキッチン』からOEM契約受注につなげるための人事ですから、三月までのみなさんの実績次第では、この通りにならないこともあり得ます。みなさん、原田さんが無事昇格できるよう、気を引き締めて数字を作ってください」  行人ははサラッと厳しいことを言う。これもいつものことだ。 「Pro'sキッチン」はアサヅカフーズにとって、これから稼ぎ頭となる重要な洋惣菜シリーズだ。だが、これを製造・販売するだけに終わっては、一部の製造を提携先に委託して利益率が下がっている以上、ビジネスとして完成度が低い。  行人が立ち上げたPTでは、「Pro'sキッチン」を販売した、その先を考えていた。「Pro'sキッチン」の品質でアサヅカと提携先への信頼を深め、小規模チェーン店を中心に、その店ならではのメニューの製造を受注するのだ。  チェーン店は、各店での共通メニューを、自社の加工工場、つまりセントラルキッチンでまとめて製造するのでコストダウンできる。だが、セントラルキッチンを自前で持つには、かなりの売上が必要だ。  一店舗辺りの客数、店舗数、どちらも規模を追い切れない中小規模の飲食店から、セントラルキッチンの代わりに製造を外注してもらい、OEM製産を行うこと。これが「Pro'sキッチン」シリーズ展開の真のゴールであった。「Pro'sキッチン」前年比二七〇%の数字を叩き出した戦力の筆頭である原田が、OEM製産の受注部隊に回るのは、理に適った人事と言える。  この一年、原田を係長職に昇進させるのは、行人に与えられた裏ミッションだった。いちいち上司の上を行こうとする原田が他部署に移れば、行人が仕事をしやすくなると翔太は考えていた。  だが。 (別にこのひと、誰が部下だってそんなに関係ないのかな)  ひとの悪意にもビビらず、嫌われると分かっていてもあえて突っ込んでいく行人の仕事ぶり。翔太は誇らしく思う。自分には決してできないことだ。  打ち合わせが終わり、原田と内海は外回りに出ていった。いつもいない二係は今日も誰もおらず、その向こうの三係も量販の担当者に呼び出され、あたふたと事務所を飛び出した。  ふたりだけになった事務所で、行人は翔太を手招きした。翔太は椅子にかけたまま、子供のように車輪をカラカラ鳴らして行人の隣へ移動した。 「じゃあ、新人育成のスケジュールを作っていくね」 「はい、お願いします!」  行人は手早くスプレッドシートを立ち上げて、今から三月いっぱいまでの準備期間、四月に新入社員を迎えてからの指導項目と、タスクを書き込む表を作成した。 「ショウちゃん、こういうスケジュールもの苦手だからね。今年の分は俺がざっくり作っちゃうから、来年以降はこれを焼き直して使ってね」 「ありがとうございます」  行人が作るスケジュールはいつも早め早めだ。その通りにこなしていけば、どの業務も高い完成度で完了させることができる。あとは自分がどの程度実行できるかだけだ。 「まずは、自分のやってる業務を全部洗い出してみるの。それが『営業職』に必要なスキルだから。ここまでできたら、一度俺に見せてね。抜けがないかチェックするよ」 「はい」  行人は説明した内容をシンプルな表現にまとめて、表に入力していく。翔太はあとでその表を見たとき不明な点が残らないよう、行人の説明の要点を素早くメモする。行人は頭の回転が速いので説明も速いが、そのスピードでメモっていくのはマスターした。三年間の成果だ。 「大体それをこの頃までに済ませたら、項目ごとに、どんな順番で教えたらいいか考える。ここもスケジューリングになるから、俺と一緒にやろう。いいね?」 「はい」  自分の気持ちを抑えていない行人は、今日はいつもと違いデレ寄りに優しい。珍しい、職場での穏やかな時間だ。 「で、ここから先は、実際に入ってきた新人の得意不得意を見てから、優先順位を考える。場合によっては、これを先に持ってきて、こっちをあと回しにしても」 「PCを使い慣れてるか、よその大人とちゃんと口を利けるかどうかを見るんですね」 「そうそうそ! できるところから教えていった方が早いし、お互いストレス少ないからね」  翔太は重要な点をメモしていく。翔太のボールペンを走らせる音と、行人がキーボードを叩く音が、代わる代わる部屋に響く。  唐突に、行人が机にぐたりと伏せた。 「あーあ。ショウちゃん、男子とペア組ませたくないけど、内海さんみたいにかわいい女のコもイヤだな。どんな子が来るんだろ」  翔太はボールペンを動かす手を止めて、顔を上げた。 「ユキ、きらりんのこと誤解してる。きらりん中身、チョーおばさん。手強いよー。かわいいってタイプじゃないから、全然」 「そうなの?」  翔太は大きくうなずいた。 「へええ、詳しいねえショウちゃん。いつの間にふたりはそんなに理解し合ったワケー?」  面白くなさそうな視線を投げる行人に、翔太は背筋を伸ばして言った。 「係長、そのOJTの時期はいつ頃目処ですか? 担当を持たせて任せてみるのは、大体いつ頃目標でしょうか。……てか、きらりんにあれこれ詮索されないようにガードしてるんだから。俺、がんばってるんだから」  行人は上体を机の上にだらりと伸ばしたまま、顔だけを翔太に向けて「ふーん」と鼻を鳴らした。翔太は笑って行人のジャケットの裾を指でつまみ、甘えるように軽く引いた。 「係長ってば仕事しましょうよ。もうすぐ昼休みになりますよ。ねえ、俺に続き教えてよぉ」  翔太のおねだりには、行人は抵抗できない。身体を起こして、再びキーボードを叩き始めた。 「ショウちゃん」 「何?」  キーボードを叩く音が止まった。廊下を話し声と足音が通り過ぎた。 「チューしたい」 「え」  ボールペンを持つ手が震えた。翔太が顔を上げると、行人が挑戦的な笑みで翔太を見ていた。翔太の大好きな行人の瞳。試すような、からかうような、でも、切ない瞳。 「……いいよ」  行人の開いたノートPCの陰で、翔太はまぶたを閉じた。行人の指が翔太の顎に触れる。 「何それ、ショウちゃん……超カワイイ……」  行人の体温が近付いたとき、部屋のドアが勢いよく開いた。 「西川! 今日の昼いいか? ラボ長がスランプで、味作りにつまづいてる。一緒に試食に入って欲しいんだ」  企画課のひとだった。 「メシは炊いてあるって言うから、一食浮かす積もりで、助けてくれ」  行人は小さく、「あ、ああ……、いいけど……」と答えた。 「頼むわ」  短くそう言って企画課のひとは去っていった。  バタンとドアが閉まったあとで、翔太は行人と顔を見合わせた。 「ちぇっ。今日はショウちゃんとラーメンでも食いに出ようかと思ったのに」 「よしよし。その代わり、夜はウチでゆっくりご飯食べよう」  翔太はそっと行人の頭を撫でた。行人は素直に「うん」とうなずき、素早く一秒だけ翔太の唇に唇を触れた。  昼休みになり、行人はしぶしぶラボに出向いた。翔太はコンビニで昼メシを買ってきた。今日もついプリンをカゴに入れてしまい、自分でもちょっと笑ってしまった。  天気が好い。PCのモニターが見づらくなるので日中閉めきっているブラインドを、少し上げてみた。気温はピークに低いが、日差しは少しずつ春を孕んでいる。  誰もいない部屋にひとり気楽にしていると、翔太の頬は自然と緩む。嬉しくて幸せで、誰もいないのについ下を向いてしまう。「行きます」と返事して、昨日ついに行人の部屋へ移った。これからは一緒だ。
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