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2、はい、俺、営業向いてません!-3
そんなことがあってからも、職場での行人は全く変わらなかった。つっけんどんで無表情、指導内容も相変わらず厳しい。ときには聞いている原田がドン引きするような鋭い指摘もあった。
「おいおい加藤、この間入社してきたばかりのお前にさ、前年の販促費の推移とか聞いてもしょーがないだろう。あいつ、マジで何考えてるんだ」
行人が席を立った隙に、原田は憤慨したように翔太に言った。
「いえ。前年の予算と実績の数字は、資料として全て渡されてます。俺の理解が追いついてないだけで、係長の指導は正しいです」
原田は首を振った。
「いやいやいや、加藤くん。きみが西川係長に心酔したくなるのも分かるけど、そこまでいくともはや洗脳だよ。きみはもうちょっと、自分を大事にしてもいい」
洗脳か。そう見えているうちは大丈夫だ。翔太は少し安心した。知られたくない気持ちの方は気付かれてない。
「僕は物覚えのいい方じゃないんで。とっとと仕事を覚えられるなら、今は洗脳もウェルカムですよ」
翔太が自嘲的にそう言うと、原田はべえっと舌を出した。
「うわあ、加藤くんはドMだねぇ。とても俺なんかじゃついていけねーわ、その感覚」
翔太が二度目に行人に食事に誘われたのは、二週間後のことだった。今度は無国籍風の居酒屋だ。
「お疲れさまー」
ビールで乾杯して、翔太はザワザワと賑やかな店内を見渡した。
「ここは、もしかして、ウチの製品入ってます?」
「イエース。ウチの豆の水煮とスープ、使ってもらってるよ」
行人はメニューを指差した。
「秋津経由だから、俺の担当じゃないけど」
行人はそう言って、ジョッキを傾けた。ということは、原田の担当区域だ。
「いいんですか? せっかくお金落とすんだから、係長担当のお店を使えばいいのに」
翔太は心配そうにそう言った。行人は即答した。
「いいんだよ。せっかくプライベートでメシ食うんだから、仕事関係ないとこに行きたいじゃん。嫌だよ、加藤くんとメシ食ってるところに、お店の支配人とか来て、挨拶とかしなきゃならなくなったら。そりゃ、加藤くんの勉強にはなるだろうけど、そんなとこで勉強しなくてもいいように、昼間ミッチリ指導してるもん」
ザワついた店内。ちょっと昔の洋楽がエンドレスでかかっている。客同士が話すのも、少し声を張らないと聞こえない。翔太と行人がカウンターの端に並んで座っていると、何か話すたび、耳を相手に近づける形になる。翔太はどぎまぎした。それを気付かれないよう平静を装っているが、成功しているかどうか分からない。
行人は翔太に「動物の内臓は食えるか」と訊いた。
「はい、俺、この間も言いましたけど、食えないものないんです」
翔太は胸を張ってそう言った。
「ふーん。そういうこと言う子には、中国とかアフリカとかの、もんのすごい珍味をムリヤリ食わしてみたくなるね」
行人は意地悪そうな笑顔でそう言った。
「受けてたちますよ。じゃあ係長、今度俺をそういうディープなところに連れてってくださいよ」
翔太がそう言うと、行人はまた数秒動きを止めた。
(何なんだろう、この間。どうやら俺の言ったことが気に障ってる様子でもないし)
注文した料理が届き始めた。中にはハチの巣のようなハニカム構造の物体が、トマトの赤い汁で煮込まれたひと皿もあった。
「何です、これ」
「トリッパだよ。牛の胃袋の煮込み。うまいよ。食ってみ」
「いただきます」
弾力のある歯応えから、じわっと旨みがにじみ出る。トマトのまろやかさが臓物の持つ濃い味を和らげ、この上ない美味だ。
「係長、うまいっす!」
「だろー」
おいしいものはひとの心を近づける。同じひと皿を分け合って味わっているとき、間違いなく同じ体験を共有している。
今日も行人は、仕事の話は一切しなかった。冒頭の翔太の質問に答えたのみだ。
「俺、幼稚園の頃、障子破くのにハマッててさあ」
行人は自分の幼い頃の話を語って聞かせる。翔太は相づちを打ちながら、快い行人の声に耳を傾ける。
「えー、親御さん、苦労したでしょうね。穴が空きっぱなしじゃ、寒くてしようがない」
「そうそう。あるとき、張り替えるのにうんざりした母親が、全部ガラスに入れ替えちゃった」
行人は屈託なくそう言って笑う。
「そうなりますよね」
「うん。で、その次にハマったのは襖に穴を開けることー」
「破壊神ですね、ホントに。親御さんに同情しますよ」
普段酒を飲まない翔太だが、今日はビールが進んだ。ジョッキ二杯目に入る頃には、隣にいるのが上司だという遠慮も薄らいだ。話すたび身体を近寄せることにも慣れ、隣に座る行人と肩や脚が何度もぶつかった。行人も特別、翔太を避けたりしなかった。
翔太はこのままこうしていられればいいのにと思った。仕事場では、行人は決してこんな風にならない。上司とは言え、歳は三つしか違わない。ここでこうしていると、上司部下というより、ただの普通の友人同士のようだ。
(普通の友人同士……)
それはそれで、翔太の胸は軽く痛む。が、それでいいのだ。不毛な夢を見るほど子供じゃない。
ビールと行人の声に酔い、すっかりいい気分でしゃべっている翔太だが、脳内には不思議と冷めている部分があった。
(係長は、俺に何を言いたくて誘ったんだろう)
公私の区別のハッキリした行人だから、会社を出たら仕事の話はしない。メシを食ってるときにはなおさらだ。だが。
(俺、やっぱり、営業には向いていないよな)
行人は仕事ができるし、そのノウハウを漏らさず新しい部下に伝えようとしてくれているのも分かる。が、翔太の能力では、そのノウハウを吸収しきれない。日々アップアップしながら行人の指導に何とかついていこうとがんばっているが。
(バドミントンをやっていた俺には分かる。「やりたい」ことや「努力する」ことと、実際に「できるようになる」ことは、次元の違う別の話だ)
本当は係長は、何か、重要なことを自分に伝えたいと思っているのではないか。そしてそれは、翔太が傷つくようなことなのではないか。
行人はそれを、言い出せないでいるのかもしれない。
キッパリした性格の西川係長らしくないけれど。
ふたりが外へ出ると、夜半の風は温かかった。いよいよ、夏だ。
また今日も、地下鉄駅の改札で別れた。
店で触れ合った肩や脚の感触を思い出し、翔太は寝苦しい夜を過ごした。
ついに、その日がやってきた。
翔太は覚悟を決めた。
三度目に、行人からメシに誘われたのだ。三度目は個室の中国料理店だった。言いづらい話をするには最適だ。
帰り際、翔太の提出した日報に、みどりのふせんが付いて返ってきた。ふせんにはこうあった。
(社長に呼ばれた。先に行ってて)
店の名前と場所は知らされてあった。予約をしていたようだった。
一度目、二度目のときには、予約不要の気軽な店だったが、今度は違う。
(ついに退職勧告かあ……)
翔太は目の前が真っ暗になった。
冷静に考えると、勧告されたからと言って従う必要はない。そもそも正式な勧奨であるとしたら、文書などで再三改善指示が出ているはずだ。単純に物覚えが悪い、業務に向いていないだけだったら、上司とは言えひとりの人間、善意から「向いてないんじゃないかな」「もっときみに合った道に進んだ方が幸せなのでは」的な助言をくれるだけで、それを聞き入れるかどうかは翔太次第だ。
でも、もし、この仕事が向いてないとしたら、どうしよう。
就職活動は大変だったが、今辞めて第二新卒の立場になったら、もっと大変になるかもしれない。こんな自分を雇ってくれる会社があるだろうか。そもそも自分にできることなんてあるのか。
考えていると、思考はどんどん暗い方へ傾いてしまう。
翔太は店へたどりついた。西川の名前をお店のひとに告げると、しずしずと奥の方の個室に通された。全卓個室の静かな店だった。
ひとりで座っていると、本当に落ち込んできた。翔太はおしぼりを脇へ避けて、メニューを開いた。結構高い。
一度目、二度目のときは、行人がおごってくれた。自分も払うと言ったが、「一応上司だから」と払わせてくれなかったのだ。だが、上司とは言え行人もまだ二十代。係長手当といっても大した額じゃない。自分と懐事情はそう変わらないだろう。
(こんなお店じゃ、おごりにはさせられないよ。今日こそはちゃんと割り勘にしてもらおう)
翔太は財布の中身を確認した。ここへ来る道すがら、コンビニに寄って現金を下ろしてきてある。
「こちらです」
お店のひとが案内してきたあとから、行人が現れた。
「ごめんね。すっかり待たせちゃって」
「いえ」
翔太は短くそう答えた。行人は出された茶をひと口飲んだ。
「社長、なんだったんですか?」
入社式で見た、社長と行人の親しげな様子を翔太は思い出していた。このひとには、表の係長職とは異なる、裏の権力があるのかもしれない。
「あー。もう今のまんまじゃジリ貧でしょ、ウチの会社。だから、新しいことをするしかないって、PTを立ち上げて開発していきましょうって話なんだけど、古株の反対に遭っててさ。ったく、『そういうのなんとかするのがお前の仕事だ』って説教してきたけど。あのおっさん、優しいっつーか、気が弱いからさ」
「……すごいですね」
社長に説教。これはやはり、身内。
「係長って、社長のご親戚だったりするんですか?」
「へ? 違うよ。大体この会社もうからないから、社長の親戚連中、誰ひとりとして加わりたがらないもん」
(へー。そうなんだ……)
「もうからないんですね……」
「ああ、うん。だからそこから変えないとさ。って! 仕事の話はもう止め! せっかくのご飯がまずくなっちゃう」
行人は翔太の手からメニューを受け取った。
「加藤くん、何か食べたいものはあった?」
「いえ、俺、こういう店初めてなんで、メニュー見てもよく分からなくて」
行人はまた手を止め、しばらくじっと下を向いた。
(何なんだよ。黙祷か)
今日が最後かと思うと、翔太はいつもの引っ込み思案でいるのがもったいない気がしてきた。いつも自分を押しとどめているブレーキを解除してみようか。
「あ、でも、係長。俺、これ食べてみたいです」
「ん? どれ?」
行人はメニューを翔太の方に向けて傾けた。
「この、杭州風豚の角煮ってヤツ」
「ああ。東坡肉ね。OK。じゃ、これ頼もう。他には?」
「あとはとくに」
「じゃ、俺が適当に頼んじゃうね。飲みものは?」
仕事でと同じように、行人はテキパキと注文を済ませる。行人のセンスは信頼できる。バランスよく、おいしいものを、味にメリハリを利かせて、最高においしい組み合わせを選んでいく。
(このひとと一緒にいれば、こんな風に、いい感じに選んだ最適な組み合わせを楽しめるんだろうな。食べものも、生活も)
翔太は思った。
では、行人は普段、どんな生活をしているのだろうか。
行人は晩飯に翔太を誘って、いろいろ自分のことを話してくれたが、どれも記憶の中の昔話だった。今現在、行人がどんな生活をしているのか、翔太は全く知らない。住んでいる街は、原田との会話からわずかにうかがい知ることができたが、どんな家で、誰と住んでいるのか、家族とか、ひとり暮らしなのか、誰かと同棲でもしているのか。
翔太はハッとした。こんなカッコよくて、よく気の付くひとが、ひとりだなんてあり得ない。放っておかないだろう、女のひとが。そしてもしかして、それ以外も。
(まあ、社長には、もててるよね、このひとは)
まさか、社長が。
翔太は首を振った。今日はとかく悪い方へと考えが転がる。
「加藤くん、どうした?」
「いえ、なんでも」
翔太は愛想笑いをしてごまかした。
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