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2、はい、俺、営業向いてません!-5
夕食と言ったら、普通は六時頃だろうか。
翔太は部屋を掃除して、買いものへ出て、大急ぎで支度をした。段取りが悪いので、相当早めに行動しないと、いつも予定の時刻を遅れてしまう。
夕食の準備を終えて、翔太は早めにシャワーを浴びた。まだ気温は高い。また汗をかくだろうが、かいたらかいたでまた浴びたらいい。いくぶんサッパリして髪を乾かす。鏡の中の翔太はいつものようにはっきりしない顔立ちで、「可愛い」とは思えない。
ドライヤーを片付けて、翔太は台所で水を飲んだ。落ち着かない。
スマホが鳴った。翔太が慌てて駆け寄ると、行人からLINEだった。
『今地下鉄に乗りました』
翔太は時間を確認した。
(いつもの俺の通勤プラスひと駅だから……)
『分かりました。待ってます』
翔太はそう打って靴をはいた。部屋にカギをかけていると、スマホがまた鳴った。行人は笑って飛び跳ねている、可愛いキャラクターのスタンプを送ってきた。
待ってますって、いい言葉だなと翔太は思った。自分が使ったことのなかった言葉。使う日が来るとは思っていなかった言葉。
翔太はいつもの地下鉄駅へ行き、改札前の柱にもたれた。目立つ位置、改札を出るひとの目に入る位置を選んだ。地下鉄が止まり、ひとが降りてくるたびに注意深く見回した。三本目で、行人がやってきた。
夏向きのラフなレンガ色のジャケットにベージュのパンツ。手にはサックスブルーの小さな紙袋を提げている。出勤時とは違い、洗いっぱなしで下ろしている髪のせいか、会社で見るより二、三歳若く見える。そして翔太が驚いたのは。
「迎えに来てくれたの」
行人が嬉しそうに翔太のそばへやってきた。
「……メガネ」
翔太は行人の顔を指差した。
「ああ、これ? 休みの日はコンタクト入れないんだ。面倒くさいから」
赤い縁の丸いメガネ、レンズにはグレー系の色が入っている。
翔太は口が利けなかった。その姿があまりにカッコよすぎて。
行人は困ったように笑った。
「あはは。変かな。そんなに引くほどチャラい? 俺」
翔太はうつむいた。
「いえ……カッコいい……です」
恥ずかしい。
隣では行人も絶句していた。数秒のあとに、行人はようやく口を開いた。
「俺を殺す気か翔太くん。カワイすぎるだろ。カワイすぎて俺死ぬ。キュン死する」
え?
「じゃ、今まで係長が何かあるたび止まってたのって」
「そーだよ! 翔太くんがカワイすぎて毎回心臓が止まりそうになってたよ。何かヘンなことを言ってしまわないよう、必死でこらえてるんだよ」
えー!
「……知らなかった」
翔太が呆然と呟くと、行人はぷいと横を向いて言った。
「ええ、ええ、そーでしょうとも。分かってました。全然気付いてもらえてないなって」
翔太はもう、どうしていいか分からなかった。頬が熱い。行人は小声で付け加えた。
「だから、思い切って、告白したんだよ。このままじゃ、いつまでも気付いてくれなそうだったから。正解だったろ?」
めまいがしそうに、嬉しい。ひと目構わずこのひとに抱きつきたい。
だが、度胸のない翔太にそれはできない。
(係長、俺も、死にそうです)
こんなに誰かを好きになってしまうなんて、信じられない。
「おじゃましまーす」
狭い1LKに行人を通した。翔太はカレーを温め直そうとガスコンロの火をつけた。
「手間と時間がかかったろ」
行人は翔太の労をねぎらった。翔太は困って笑った。
「俺、料理ダメなんで。どうにか食えるものと言えばこれしか」
行人は呟くように「ありがとう」と言った。
「これ、お土産。あとで食べよう」
行人は翔太に持ってきた紙袋を手渡した。
「ありがとうございます」
翔太は今日こそ行人に、余計な気と金をつかわせたくなくて呼んだのだった。だが、よく気の付く行人は、部屋に呼ばれて手ぶらでは来なかった。
「わあ、プリンだあ!」
翔太は思わず声に出してしまった。
「冷蔵庫に入るかな」
「大丈夫です。冷やしておきますね」
カレーは料理下手な人間の、唯一の逃げ道だ。誰が作っても、そこそこのものができる。だから調理実習でもキャンプでも、気軽で人気のメニューなのだ。第一、市販のルーを買ってくれば、味付けを自分でしなくていい。行人は舌が肥えていそうだから、下手なものを出せない。行人は喜んで食べてくれた。翔太は内心ホッとした。
「ごちそうさま」を言ったあと、行人は台所に食器を下げて洗い始めた。翔太が止めようとしても、行人は「翔太くんは一生懸命作ってくれたんだから、洗いものは俺がやるよ」と涼しい顔で手を動かし続けた。
諦めて、翔太は行人の隣でやかんを火にかけた。この部屋で、自分以外のひとが水を使う音を聞く。胸の奥がわくわくするような、じんわりするような、初めての感覚。翔太は食器棚から用意しておいたティーポットを出してきて、茶葉を入れ、沸いた湯を注ぎいれた。
「へえ。翔太くん、お茶淹れるの」
行人は驚いたようにそう言った。
「俺も、この歳になると、水やスポーツドリンク以外のものが飲みたくなって。計算してみたら、ペットボトルを買うより、茶葉を買って自分で淹れた方が安いんです」
「何それ、カワイイ……!」
洗いものを終わらせた行人がじーんと感動していた。
「え? 今のどこが」
「まだ二十二なのに『この歳』とか。計算してみたら安かったとか。可愛すぎる」
へ? そんなとこが?
翔太には意味が分からない。
分からないが。
(ま、喜んでくれてるんだから、いっか)
片付けものが終わり茶が入って、翔太は行人の土産のプリンをテーブルに並べた。短い夏、気温はまだ高かった。翔太は、今日ばかりはペットボトルのお茶を冷やしておけばよかったかなと思った。
プリンはちゃんとした洋菓子店のもので、うまかった。さすが行人の選択だと翔太は感心した。
「でも係長、どうしてプリンなんですか?」
行人は少し黙って、長い睫毛を伏せて言った。
「甘いもの、好きかと思って」
「係長……?」
「よく昼飯のとき、コンビニスイーツ買って食べてるだろ」
視線を逸らしたまま行人は言った。翔太は何も言えない。黙ったままの翔太に気付き、焦ったように行人は言った。
「ごめん! 引いた? 俺、キモい?」
「そんな……、そんなことないです!」
頬が熱くなった。きっと真っ赤になっている。翔太は恥ずかしくて赤い顔を見せまいと下を向いた。
「ホントに、係長、俺のこと見てくれてたんですね」
何か、嬉しい……。最後の言葉を心の中で呟いたか、口に出してしまったか、翔太にはよく分からなかった。行人が隣で頭を抱えた。
「係長?」
「殺す気か。マジでキュン死するわ」
行人は早口でそう言って、翔太の肩に腕を回しその上体を引き寄せた。
「係長……」
翔太は身を固くした。ばっくんばっくんと胸が大きく鳴っている。触れあったところから、この拍動を聴かれてしまうかもしれない。翔太は恥ずかしすぎて早く離れないとと焦ったが、行人の体温は甘かった。振り払えない。
ふっと翔太の唇から漏れた呼び名に、行人は翔太の肩に回した手で翔太の頬を撫でた。
「『係長』は止めて。俺の名前を呼んで」
「え……」
「いいから。呼んでみて」
翔太は震えた。行人は許してくれない。
「ほら。俺の名前だよ。ちゃんと知ってる?」
行人はその指を頬から唇へ動かした。促すように翔太の唇をそっとたどった。翔太の脳内で世界がぐらりと反転した。
「…………」
「ん? 何? 聞こえないよ」
行人は翔太の耳許でささやき続ける。行人の指が唇をかすかにつついて催促する。翔太の体温が上がった。
「行人サン……」
その名を呼んだのどが熱い。
「やっと呼んでくれた」
行人は翔太の耳に吹き込んだ。
「嬉しいよ」
「行人サン……」
行人は空いた手で翔太の身体を、シャツの上からそっと探った。翔太が抵抗しないことを確認して、シャツのボタンをいくつかはずし、翔太の皮膚に触れた。翔太は自分の身体がピクリと大きく震えるのを感じた。行人の指は翔太のへその辺りを往復した。
「行人サン……」
翔太は行人がわざと時間をかけて楽しんでいるのがうっすら分かる。翔太の気持ちが高まるのを、自分の欲望が猛るのを。その過程を味わっている。翔太は唇を開いて、行人の指を甘くかんだ。自分の名を呼ぶ翔太の声に、隠せない潤いが混じるのを、行人は聞き逃さなかった。行人は腹から下へ指を進めた。
「んっ……」
翔太の身体がガクンと反った。
「いい? 翔太くん、ここから先は引き返せないよ。どうする?」
耳に感じる行人の吐息が熱い。
「嫌なら止める。翔太くんはどうしたい? 俺に、どうして欲しい?」
どうしてと言われても。翔太は初めてだ。弾けそうなこの欲望がどこへ向かうのか、その先は知らない。
「行人サン……そんな意地悪を言わないで」
俺をそんなにいじめないで。
翔太が濡れた声でそう言うと、行人はぶるんと震えて翔太の身体を押し倒した。翔太の着衣は開かれて、行人の指と舌が翔太を翻弄する。
「あ……あ……あっ……」
翔太ののどは信じられないほど甘い声を漏らし、行人はそれを「可愛い」と繰り返し喜んだ。行人が嬉しそうにくすりと笑うたび、翔太は羞恥に身をよじった。恥ずかしくて死にそうなのに、自分の身体が反応するのを止められない。誰にも触れさせたことのない翔太の秘密が、蛍光灯の下に晒され、行人の思うがままにされている。
行人のその技術は翔太に欲望の階梯を駆け上らせた。
悲鳴のような声を上げて、行人の口の中で翔太は達した。痙攣の嵐が身体を過ぎ去るのを脱力したまま感じていた。
「行人……サン……」
翔太はけだるげに行人の頬に指を伸ばした。行人は感極まったように呟いた。
「可愛いよ、翔太くん」
涙の溜まった翔太の目許を、行人はその指で優しく拭った。翔太は深く息を吐いた。
「……俺……」
「ん?」
行人は翔太を優しくのぞきこんで、翔太の次の言葉を待った。
「もうこれで童貞じゃなくなったのかな」
翔太がそう言った途端、行人はガクリと翔太の身体の上に伏せた。
「行人サン?」
翔太は焦って身体を起こし、行人の表情をうかがった。
「きみは、何度俺を殺せば気が済むんだ!?」
「え……」
行人は怒ったような顔で翔太の身体を揺さぶった。
「ホントにそれ全部、計算じゃないんだよな。何だよ。反則だろ。可愛すぎるんだよ」
「計算って……分からないです」
「チクショー! 可愛すぎる」
行人はまた頭を抱えて悶絶した。
翔太は乱れた着衣のまま、ゆっくりと身体を起こした。
「分からないですけど……」
翔太は行人の肩に手をかけた。
「俺も行人サンが欲しいです」
「翔太くん?」
翔太は不器用な手つきで行人のボタンを外した。指は細かく震えていた。
「翔太くん……ムリしなくていいよ」
行人は震える翔太の手をそっと押さえた。翔太は首を振った。
「俺にも……させてください。初めてだから、うまくできないと思うけど」
「翔太く……」
翔太の指で、行人の身体が細かく震えた。さっき行人にされたことを思い出して、翔太は舌を使ってみた。行人は翔太の名前をいくども呼んだ。行人の指が翔太の髪をなで、耳を、頬を愛おしげになぞる。
「翔太くん……俺を、見て」
翔太の好きな行人の声。その声はいつになく切なく熱い。翔太は魔法にかかったように言われた通りにした。行人の端正な顔立ちは、翔太の与える感覚に酔って淫蕩に歪んでいる。美しかった。
「翔太くん……可愛い……」
うわごとのように呟く行人。自分のつなたい愛撫を行人が悦んでいる。そのことは翔太を有頂天にした。相手が悦ぶことが自分の悦び。征服欲。いろんな感情が翔太の内部でせめぎあった。せめぎあったすべての感情が、翔太をさらにかき立てる。
行人が身を固くして腰を引いた。翔太は逃がさなかった。離してくれと懇願する行人に構わず翔太は大きく舌を動かし続けた。こらえきれず行人は翔太の口の中に放出した。幸福な満足感で翔太は行人を口から離した。行人の長めの髪が乱れて、顔を半分隠していた。翔太はそっとその髪を指で梳いた。ずっと触れてみたかった行人の真っ直ぐな髪。翔太はついにそれに触れた。行人は長い睫毛を上げた。
「翔太くん、大丈夫?」
行人は自分をのぞきこんでいる翔太の頬に指を伸ばした。
「平気です」
翔太は頬に感じる行人の指の感触にうっとりしてその場に崩れた。
隣に横たわった翔太の身体を、行人がそっと抱き寄せた。翔太もおずおずと自分の腕を行人の身体に回した。乱れた着衣のまま、ふたりはしばらくそうしていた。行人は翔太の髪をゆっくりと、ゆっくりと撫でた。夏の夜は更けていく。暑いのに離れがたくて――。
行人が翔太の背中を撫でて、言った。
「そろそろ帰るよ」
背中に感じる行人の手のひらの温かさが名残惜しくて、翔太は言った。
「泊まっていけばいいのに」
行人は翔太の身体から手を離し、身を起こしながらクスリと笑った。
「泊まったら、俺、翔太くんをメチャクチャにしちゃうよ」
「いいですよ……!」
もっと気の利いたことを言えたらいいのに。翔太はそう言うのが精一杯だった。行人は着衣を直して言った。
「俺は、翔太くんを消費したいんじゃない。育んでいきたいんだ」
翔太は胸の熱さに唇をかんだ。
翔太は帰る行人を玄関まで見送った。行人は靴をはいて、ドアを開けようとした手を止めた。振り返り、小さく訊いた。
「唇にキスしてもいい?」
翔太は無言でこくんとうなずいた。
行人の顔が近付いてきた。チュッと映画のような音がして唇が触れ合った。
行人が帰っていったあと、翔太はひとりのベッドで、行人の言葉を思い起こした。
(俺は、翔太くんを消費したいんじゃない。育んでいきたいんだ)
その言葉は、翔太の耳に極上の愛の告白に聴こえた。
(こんなこと言ってくれるひと、もう一生出会えない……)
翔太は恋人の名前を呟きながら眠りについた。
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