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3、上司、社長に説教する!? -2
翌朝。夏の光は早くから一日の始まりを告げる。行人はそっとベッドから出た。
翔太はボーッとしたまま身を起こした。
「ユキさん……?」
「ああ、いい、いい。ショウちゃんはまだ寝てなよ」
行人は衣服を身に着けた。
「んー……」
翔太はパタンとまたベッドに倒れた。
「遅刻すんなよ」
行人はベッドに眠る翔太の頬に、ふわりと軽いキスをして出ていった。
翔太が社に着くと、行人は係長席で資料を読み込みながらコンビニのおにぎりをパクついていた。おにぎりと、それから間に合わせの野菜ジュース。スーツもYシャツもパリッと完璧だ。
(おにぎりくらい、持たせてあげられればよかったのかな)
翔太は二時間ぶりの恋人に挨拶した。
「おはようございます」
「ん」
行人は顔を上げもしない。
また目まぐるしい一日が始まる。
朝礼が終わり、各担当者が業務に散っていく頃合いに、入り口でチラチラこちらをのぞいている小柄なおじさんが翔太の目に入った。社長だ。
翔太は行人の席を振り返った。行人も気付いていたようだ。行人は自席から社長に声をかけた。
「社長、何スか。こんなとこひとりで来ちゃダメでしょ」
子供をしかるようなその言葉に、マーケティング部内にいた数人の視線が集まる。社長は行人に泣きついた。
「西川くーん。今度TVの取材受けることになっちゃってさー」
行人に声をかけてもらって、ようやく社長は部内に入ってきた。
「お、いいタイミングじゃないですか。『Pro'sキッチン』、アピールしてきてくださいよ」
行人は資料を手から離さずに、口だけで社長にそう言った。このあしらいよう。本当に度胸のあるひとだと翔太は呆れる。
翔太は気が小さいので、社長にそんなむげな態度は取れない。予備のパイプ椅子を持ってきて、社長のために行人の机の横に開いて置いた。社長は「ありがとー」と言ってそこへかけた。行人は(余計なことをして)と無言で一秒だけ翔太をにらんだ。翔太は肩をすくめて自席に戻った。
「どーしよー、何しゃべっていいか分かんないんだよお」
社長が泣きそうに吠えている。行人は心の底からうっとうしそうに言い放った。
「もー、そういうことは専門のひとと相談してください。俺たちもっと稼ぎますから。そしたら『広報室』設置してくださいね」
「いーけど。そのときには西川くん、『広報室長』やってくれる?」
「イヤです! 俺は現場が好きなんです」
行人は手にした資料をバサリと机に置いた。
「社長、俺を係長職から外して、遊撃隊に戻してくださいよ。部下の指導育成なんて、俺、向いてませんから」
「それはダメ」
「社長!」
行人は机をバンと叩いた。ふたりはそのままにらみ合っていた。キツネとリスのにらみ合いだと翔太は思った。どっちも、まあ……、そこそこに可愛い。
行人が先に折れた。
「それで? 何て番組ですか」
「ええと……」
うろ覚えの社長に、行人は「インタビューに来るのは?」「構成聞きました?」などと矢継ぎ早に詰問した。翔太だけでなく、向かいの原田や隣の内海も、興味シンシンで聞いている。社長から情報を取れるだけ取ったあと、行人は知恵を授けてやった。
「いいですか? ストーリーはこうですよ……」
社長に説教モードで助言を垂れる行人を横目に、原田が小声で言った。
「すごいよなあ。営業部をマーケティング部に再編して、その中に『企画課』を作ったのも、西川係長の働きなんだよ。みんなバラバラに販促企画打ってたのを、バックアップ部署を作って、腕自慢をそこへ集めてさ」
内海は目を丸くして聞いていた。翔太は誇らしかった。自分より歳下の行人を、ことあるごとに追い落とそうとする原田だが、行人の手腕は評価するより他にないのだ。ただひとつ残念なのは、翔太がこの誇らしさを顔に出してはいけないところ。
優秀な上司を尊敬する素直な部下。この範囲を出てはいけない。
「それから最後に! 撮影前に必ず床屋へ行って、見た目を整えておいてくださいね。マスコミ露出はアー写と同じ! 気合いを入れて臨むように」
「西川くん、『アー写』って何?」
「家帰って娘に聞け!」
面白い掛け合い漫才だが、いつもまでもこうしてはいられない。翔太は原田と内海に軽く挨拶して部屋を出た。
三階の総務で社用車を借り受け、翔太は市内南部の取引先へ向かった。
昔の営業車にはエアコンがついていなかったというが、現代に勤める翔太たちが乗る車にはどれにもちゃんとついている。時計は一〇時を回っていて、外気温はすでにそれなりに高い。
どこの社も、朝礼が終わって営業車が外へ出てくる時間帯、道路はどのルートも混んでいる。高速代は出ないので、翔太は焦らずドライブを楽しむことにした。相手先と約束した時間にはまだ余裕がある。これも、翔太が普通に生きていると難しいポイントだ。
何時に着くためには、どの辺を何時に通過して、そのためには何時に会社を出て、そのためにはいつ持っていくものを揃えて……と、いちいちふせんに書いて時系列を把握するのだ。今回は、持ちものは前日のうちに揃えておいた。出たついでに昼食を外で摂る予定なので、通過ポイントの時間を押さえておくのがキモである。
翔太はこんな風に、自分の弱点をカバーして生きている。
何でもよくできる行人にも、こんな部分があったりするのだろうか。
『俺は現場が好きなんです』
『俺を係長職からハズして、遊撃隊に戻してくださいよ。部下の指導育成なんて、俺、向いてませんから』
先ほどの行人の言葉――。
指導育成されている翔太の側からは、向いていないとは思えない。自分がもし将来部下を持つ日が来たとしても、この何分の一かでもできるだろうか。だが、行人はそう感じていないという。もしかして。
(俺を指導育成するのって、虚しい仕事なのかな……)
物覚えはよくないし、余計なミスが多いし。
可愛い可愛いと、行人が喜んでくれてるのは、自分のいったいどこなんだろう。言動すべてが可愛いと行人は言うが、だったらなぜ、自分の育成から外れたいと思うのか。
翔太はぼんやりと、いつものやりとりを振り返った。
「可愛い」と喜ばれるのは、正直嬉しい。
行人はイケメンでカッコいい。仕事もよくできる。
(あんなひとに「好き」って言われて……)
翔太はハンドルを握りながら、ひとりポッと赤面した。
(嬉しくないハズない)
口だけではない。行人は恋人として申し分なく翔太を大事にしてくれる。
(でも……)
行人は、絶対に自分の家に翔太を呼んでくれない。
ご家族と同居だったり、いろいろあるのだろうけど、そして家族に紹介されるってシチュエーションも進んで経験したくはないけれど、翔太は行人がどんなところに住んでいるのかも知らなかった。誰かと同棲しているのかと疑ったくらいだった。
恋人として大事にされていても、部下として必要とされないんだったら。
翔太は、自分の前に拡がる、人生の選択肢に気が遠くなった。
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