花嵐散歌

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「春の、うららの、ぶぼぼぼぼお」  張り上げた歌声が突然の風に遮られ、早坂はぎょっと口を閉じた。  辺りを見回すと、合唱部員たちがわあわあと悲鳴を上げながらステージ上を右往左往していた。大量の桜の花びらが風に巻かれ、部員たちを追いかけ回すように舞い踊っている。  公園の一画にあるこの野外ステージの周囲には、多くのソメイヨシノが立ち並んでいるが、それら全てが一斉に散ったかのような猛烈な花吹雪だった。早坂はポケットからスマートフォンを取り出し、眼前の光景を撮影しようと試みたが、手元が強風に煽られブレるばかりだった。  ステージの脇で部活顧問の教師が、近くにある休憩所へ避難するよう大声で指示している。表情は冷静だが、バタフライ泳法に似た動作でやたらと腕を振り回しているあたり、内心のところ穏やかではないらしい。  教師の言葉に従って学生たちが壇上を離れていく。スマートフォンをポケットに押し込み、早坂も他の部員に続こうとした時、風音に混じって微かにピアノの音色が聞こえた。  伴奏用のアップライトピアノが置かれた方を向くと、椅子に座り鍵盤を弾き続ける後輩の姿が目に入った。 「何やってんの、天野!」  押し寄せる花の群れを腕で防ぎながら、早坂はピアノの近くへ駆け寄った。  風にさらされた長髪が注連縄のように曲がりくねるのも意に介さず、天野は演奏を続けていた。見開かれた目の奥にぎらぎらと高揚の光が灯っている。 「先輩。歌はまだ?」  指先を忙しく動かしながら、天野は上ずった声で言った。 「こんな状況で歌えるわけないでしょ。合唱は中止」 「独唱でもいいよ」 「よくない」  数言交わす間にも、吹きつける風と花は勢いを増す一方だった。荒れる天気に呼応するように、ピアノの音色がテンポを速める。天野は頬を紅潮させ、楽譜と顔が一体化しそうな前のめりの体勢で鍵盤を叩いていた。  すっかり興奮してやめそうもない、と早坂はため息を吐いた。開いた口に花びらが飛び込んでむせた。  ごうごうと吹き荒ぶ桜の嵐には、確かに破滅的な美しさがある。日常離れした光景に気が昂る感覚は早坂にも分からないではなかった。幼い頃、記録的な大雪が降った日にキヤャアと奇声を上げながら家中を駆け回った、少々気恥ずかしい記憶が頭をよぎる。  猛然と身を揺する風に耐えかねて、早坂はピアノの脇にくずおれた。立ち上がるのも目を開けているのも難しい。遠くで教師が何事か叫んでいるが、風音とピアノの二重奏に阻まれてよく聞き取れない。 「歌ってよ、先輩」  弾けるような天野の声ははっきりと聞こえた。 「歌うしかないよ。やけにならなくちゃ、こうなったら」  妙な理屈をこねて、と早坂は顔をしかめた。  とはいえ実際のところ、もはや移動も難しく避難はできそうにない。今できる行動といえば、花と風の猛威に耐えることを除けば、天野の言う通りやけを起こすくらいのものだった。  ピアノの親板にしがみつき、早坂は体を立ち上がらせた。天野の座る椅子の傍らで両足を大きく開く。早坂としては弁慶のような勇ましい仁王立ちのつもりだったが、実際には風に抗えずぷるぷると足が揺れていた。  天野はちらりと早坂に視線を向け、紅潮した頬をにんまりと綻ばせた。弾いていた曲を前奏まで戻し、数小節を繰り返して歌の開始を待っている。  花の嵐はますます勢いづいて荒れ狂い、それ故に壮麗だった。心臓が早鐘を打っていた。大雪とキヤャアの記憶が繰り返し脳裏にちらつく。 「歌ってる場合じゃない……」  早坂は理性を振り絞って呟いた。言葉は儚く風に流されていった。「はやくー」と天野がじれったそうに同じフレーズを繰り返す。 「歌ってる場合じゃない!」  早坂はそう叫ぼうとしたが、口から出たのは全く別の音だった。 「はアるのオ! うらアらアのオ!」  風音を貫く力強い声で早坂は歌っていた。  ピアノの側面を引っ掴み、ぷるぷるの仁王立ちで強風に耐えながら、腹の底から歌声を発する。歌えば歌うほど気分は高揚し、再三「歌ってる場合じゃない」と訴える理性は頭の隅に追いやられていった。  ステージの周囲どころか公園中の桜という桜が集結するかのように、時を追うほど風に舞う花びらの量は増していた。薄く柔らかい欠片が全身にびっしりと貼りつき、頭も背中も弁慶の泣き所も包み込まれていく。  口を開けば花びらが飛び込んで来るが、むせて咳き込みながら早坂は歌った。まともな思考はすでになく、腹から湧き上がる衝動に任せて歌った。これまで生きてきた中で最も、早坂は今やけっぱちだった。  視界が花の色に覆い尽くされていく。すぐ近くにいるはずの天野の姿が霞んでいく。  それでも伴奏が耳に届く限り、早坂はやけになって歌い続けた。  公園に静けさが戻っていた。  合唱部員たちと顧問教師は、おずおずと休憩所から身を出した。強風はすでに止み、名残の花びらがそこかしこに降り積もっていた。 「早坂さん! 天野さん!」  ステージに向かって顧問教師が叫んだ。壇上にはアップライトピアノの形に積もった花びらの山が一つ、人間の形をした山が二つ残っていた。  心配に表情を歪めながら、教師はストライド走法でステージへ駆け寄った。フォームは端正だがあまり速くなかったため、後から走り出した部員たちにすぐ抜き去られた。 「早坂!」「天野ちゃん!」  部員たちが近づき口々に声をかけても、早坂と天野は反応を示さなかった。遅れて着いた教師が、ぜいぜいと息を荒げながら「あなたたち、大丈夫?」と人型に積もった花びらの肩に手をかけた。  ぱさ。  花びらがこすれる音を残して、二つの人型は同時に崩れた。  教師と部員たちは呆然と立ち尽くした。ステージ上に残っていたはずの早坂と天野がいない。二人がいたはずの場所には、淡い色をした花びらだけがある。桜の嵐に飲み込まれた二人が、そのまま花びらへと変じてしまったかのようだった。  教師と部員たちの目から、はらはらと涙がこぼれた。  早坂の歌と天野のピアノは、休憩所にも微かに届いていた。呆れる無謀さではあったが、身を花と散らしてまで演奏を遂げた意気に、各々感じ入るものがあった。  さようなら。ありがとう。  そっと拍手を鳴らしながら、教師と部員たちはいつまでも涙を流し続けた。  合唱部の面々が涙に暮れている頃と同時刻、公園近くの通りで二人の怪人物が目撃されていた。  怪人物たちはいずれも、異様な量の桜の花びらを全身に隙間なく貼りつけていて、元の服装も表情も全く分からないほどだった。花から生まれた妖怪の類とも見える姿に、通りがかった人々は畏怖の視線を向けた。  二人の怪人物は「あんな危ないこと、もうしないでよ」「先輩も乗り気だったくせに」などと言い合いながら歩道を進み、やがて温泉施設の前にたどり着くと、愉快げに頷き合って入り口へと消えていった。
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