薄野原

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薄野原

 列車がやってくる先を見れば、色づいた山が秋の訪れを告げている。  いつものプラットフォームから一番線を向いて眺めれば、目の前は一面が薄野原だ。  そう言えばクラスメイトが市内にはすすきを採れる場所がないと嘆いていたな、と何に使うのかよくわからないなと思いながら振り返っていると横から彼女の視線を感じた。 「なに、和ちゃん」 「背、伸びたなって」 「今更?高校入ってからは多分、ほとんど変わってないよ」  呆れたように笑う彼に、ううんと首を左右に振って、 「背の高さというよりね、なんだかそういったことに拓が成長したんだなって思っちゃって」 「またお姉さんぶってる」 「ぶってるんじゃないわよ、実際に私の方がお姉さんなんだから」  そりゃそうだけど、と何となく言い方につっかかりを感じた彼は眉をひそめた。彼女はそんな彼の様子を気にするでもなく銀色の薄野原に視線を戻し、 「急に思い出しちゃった。昔……川遊びした帰りに鬼ごっこして遊んだなって」  言われて彼も目を前に投げる。  野原の先はちょっとした崖になっており、切れ込んだ底に幅はないけれど流れのある川が這っている。県の予算がどうのこうので再来年に護岸工事が始まる、というようなことを両親が言っていた。それが何なのか、まだ高校生の彼にはぴんと来ないけれど思い出の場所が変わっていくのだろうということくらいは想像できた。 「秋になると泳げないから釣りしてたよね。その後、遊び足りないって薄の中を走り回る拓を探すの、結構大変だったよ」 「和ちゃんが追いかけてくるから逃げてただけだろ。俺から走り回ってたなんて記憶にないんだけど」 「そうだっけ?」 「そうだよ。それに釣り竿持ってたからすぐに場所がわかっちゃって、逃げ切れたことなんて一度もなかったし、見つけるのに苦労したはずなんてないだろ」 「そっか……拓を追いかけるのが楽しかったから、そう思い込んじゃってただけなのかな」  なかなか捕まらなかったのは洋介だったかな、と呟く。彼女の中ではどちらも同じように手のかかる弟という扱いだから、記憶の中の行動で切り分けできていないのかも知れなかった。 「洋介は小さかったしね。いっつもあいつだけ手ぶらで遊んでたから、そうなんじゃないの」  何の気なしにぼんやりと思い返しながら答えれば、彼女はうんうんと頷いて記憶の整合性をとったようだった。 「そう言えば洋介ね、高校は私達と違うところ狙うって」 「え、早くない?」  驚いたように答える彼に、そうねと同意して、 「まあ、そのうち変わるかも知れないけど」 「まだ中二だろ、高校入試のことなんて考えてもいなさそうだけど」 「考えてなかったみたいだけどね。ほら、中学校で先生や先輩から色々言われたみたい」  何のことかと問い返そうとした彼だったが、すぐにそれが意味する光景を目にしたことがあったことに思い当たる。  学年に1クラスしかない中学校だから、生徒同士のコミュニケーションは密だ。部活が違おうと学年が違おうと、見たことのない生徒なんていないし同じ学年であれば確実に全員と会話している。学年が違っても、友達の部活の先輩、などの関係性があれば一度か二度は挨拶や軽い会話くらいはしているから学校中がほぼ知り合いだと考えても良い。 「あー、そういや『お前姉ちゃんいるだろ』って散々言われてたわ。入学早々、先生に言われてるのも見たことあるよ」 「別に目立ってたつもりないけど、あの人数じゃしょうがないよね」 「和ちゃんと洋介は似てるしなぁ。あまり話題もない田舎の学校だからしょうがないと言えばしょうがないだろ。けど和ちゃんも生徒会長だったんだから、普通の生徒よりは目立ってたんじゃないかな」  可愛いからモテてたし、とは言わなかった。  彼女本人が気づいているかどうかというより、その事実を認めることが何となく嫌だったので。  彼女は彼のそういった感情には気付かず、そう?と首を傾げて、 「中二にもなると洋介もマセて来たのかな。期末前に三者面談あるから高校どう考えてるのかってお父さんに聞かれて、『姉ちゃんと同じ高校には絶対行かない』だって」 「ふぅん」  彼自身はまったく逆で、彼女と同じ高校にしか行きたくなかったものだから、やましいことはない筈なのにどこか気恥ずかしさがあって曖昧な返答をした。ただ、何となく洋介の気持ちも理解できるのだ。  優秀で容姿も優れている姉がいると、同時期に在籍していなくとも色々と言われてしまう。実際、彼のクラスメイトの中にも彼女に憧れていた男子もいる訳で、後輩、今の中三でもマセているガキの中には未だ憧憬を引きずって弟を伝手にしたいと考えてるのがいないとは限らない。多分、そういった手合いにうんざりしたんだろうなと彼は洋介の苦々しげな表情を思い浮かべて同情の念を抱く。 「進路って言えば、和ちゃんは?県立?」  洋介への同情を払って尋ねた彼に、彼女はうーんと唸ると、 「まあね……多分そうなるかな。これと言ってやりたいこともないし、県立の法学部か経済学部にでも行ってれば潰しも効くってお父さん言ってたし」  田舎のことだ、駅弁大学以外に県立大があるだけでもマシだが実際のところそう選択肢がある訳でもない。  進学校という訳でも底辺という訳でもない微妙なレベルの高校だから、国立より県立を目指す生徒の方が多いし、短大や就職も同数くらいはいる。だから彼女の返答は彼らの通う学校のごく一般的な生徒の返答と差はないものだった。  冷たくなってきた風が山から降りて、薄野原を揺らす。  まるで水面のように銀の穂をうねらせる光景を眺めた視界の端に、ふわりと浮き上がる彼女の黒髪が入った。  まっすぐ前を向いていた彼女は、なびく髪を抑えながら片目を閉じてむくれている。 「風、強くなってきたね。この季節は山おろしがきつくなるから嫌だよね」  と言われても男の彼には同意できる根拠が少ない。暑いよりはマシと思う程度だ。ただ、そうやってむくれている彼女にいつものような年上然とした余裕ではなく、少女のような愛らしさが見え隠れするので今この瞬間は秋が好きだと言えそうだった。学校では凛としているから、そんな彼女を目にできるのもこうして朝晩一緒にいる自分だけだという謎の優越感もある。もちろん、口にはしないけれども。 「洋介がお姉ちゃんお姉ちゃん言わなくなって、寂しい?」  ふと気づいたことを口にする。  近所で歳の近いのは彼ら三人しかいなかったこともあって、自然とお姉さんぶるようになったし面倒を見ることを厭っている様子もなかったから、理由もなく世話焼きなんだと思っていた。だが、こうして洋介が姉離れしていく段階になってもまるで寂しそうな気配を見せていないことが、少しばかり気になったのかも知れない。  どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない彼だったが言われた彼女はより一層意味不明に思ったのだろう。顔を上げてきょとんとしたと思ったらすぐに、 「ぷ、ふふふ、何それ」 「あーいや、兄弟いないからよくわからなくってさ」 「別に洋介はお姉ちゃんっ子じゃなかったじゃない。むしろ拓の方がお姉ちゃんっ子じゃない?」 「は?」  どきりとして思わず声を上げた彼を見上げるように下から覗き込み、 「だってそうでしょ。同じ高校を選ぶくらいだもの」  まさか同じ高校を選んだ理由に気づかれているのか、と思ったがすぐにそんなことはないと思い直す。普通に考えれば最も近い高校に通うのだから、特段おかしな選択ではない。 「何言ってんの、自意識過剰」  それでも焦りからだろうか、言葉はぶっきらぼうだし選択に余裕がない。同時に、聞きたいことが喉まで出かかっていた。  ───俺が姉離れしたら寂しい?  と。  実の弟である洋介が思春期を迎えて実の姉を遠ざけるのは当たり前でしかない。だから彼女もさほど気にした風でもないし、彼もまたそんな姉弟の在り方はごく普通のこととして流した。  だが彼は弟ではない。  自分自身に洋介とは異なる感情を持って欲しいと思うのは当然だ。だって彼は彼女と時間を過ごすためだけに同じ高校を選んだのだから。  けれど、同時にそれを口に出した結果を考えてしまった。冗談で流されるならまだ良い。けれど長く一緒にいたからこそ、それが真実冗談であるのかそこに本音が混ざっているのかは彼にはわかってしまう。  そうだね、拓が離れていくのは寂しいよ。  ふんだ、私は姉じゃないんでしょ。  そのどちらもが冗言だったとしても、そこにどれだけの真意が含まれているかを看取した時どうなるのか。  だから危ういところで飲み込んだ。  一年待って、同じ時を過ごせるようになったのだ。こうして朝、無人のホームに並んで列車を待つ時間をまだ一年と少しは過ごせるのだ。臆病だとは思うけれども、今答えを急いで微かな幸せを逃す可能性を切り捨ててまで願いを叶える可能性に賭けたいとは思わない。  それでも口に出かかったのは、きっと夏祭りの件があったからだろう。  あれから彼女の口から友人の話も大学生の話も出ないけれど、それは彼が回避しているからであることも自分でわかっている。自分の知らない所で連絡を取り合っているのかも知れない。そう思うことすら嫌で、それでも知らないことも嫌で、だからと言って彼女にそれを尋ねることもしたくない。  夏休みはほぼ毎日一緒に過ごしていたし、二学期が始まってからも休日に街へ出ている様子はない。それに安心する程度の消極的な確認と不安解消で何とか心の平穏を保ってきたが、焦りとも苛立ちともつかない心の中で収まりの悪い位置にいる感情が余計なことを口にさせようとしているのだろう。 「なんだ、残念」  結果は曖昧な彼女の言葉で告げられた。  安堵しているのか不安が増したのか、自分でもよくわからないまま確かなのは余計は一言を言わなかったことは正しい判断であった、ということだ。  だから眉をしかめたまま薄野原を眺める。  あの頃と変わりなく風になびき、朝の光を受けて輝くそれは不思議なノスタルジーを想起させた。昔のままでいたかったのか、これから変わりたいのか。  色々なことが渦巻いて落ち着かない気分で百舌鳥の鳴き声を聞いていた彼の耳に、ぽそりと小さな声が届く。 「でも、私はまた同じ時間を過ごせるようになったのは嬉しいよ」  思わず目を合わせてしまったが、そこにはいつも通りの薄っすらと笑う彼女の顔があるだけだった。  それは彼に、ただの停滞であろうと今そこにあるものを壊すよりは良いのではないか、と足踏みをさせる。  だから彼も笑って、 「俺も嬉しいよ」  気恥ずかしげにそう言ってすぐに正面に向き直る。  山おろしと一緒に、線路から微かに列車の音が聞こえてきた。
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