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渡り廊下
「おはよう、拓」
国道で待ち合わせて駅へ向かう。
根雪もすっかり消え、融雪装置で足元がぐしゃぐしゃになることもなくなった通学路は緑が増え、見た目にもすっかり春を感じさせるようになった。もう少しすれば舗装されていない歩道脇にはたんぽぽやカラスノエンドウなどが咲き始め、緑にぽつぽつと彩りを加えるだろう。
そんなことを考えながら足元を見て歩く彼に、彼女はおかしそうに笑った。
「拓って意外と花とか好きだよね」
「別に……見た目にきれいな方がいいだろ。汚いもの見るよりさ」
「そりゃそうだけど。私たちがただ花だと思っているものもそれが何かってことまで知ってるじゃない。調べてるの?」
覗き込んでくるように尋ねる彼女に、彼は道端の草を眺める仕草で視線を落とし、
「まあ……調べたり聞いたり」
草花にどのような名前がつけられているのか調べることが趣味な訳ではない。多分小学校の頃だと思うが、薄野原の向こう、川沿いにシロツメクサが群生しているのを見て真っ白な花をきれいだと思うと同時に、ピンクや紫がかったものが混じっていることに不快感を覚えたのがきっかけだった。帰宅して母親にその話をしたところ、好奇心を発揮するのは良いことだと勘違いした両親が小学生に与えるには随分と立派な植物図鑑を買ってくれた。せっかく買ってもらったのだし、と調べたことが何となく癖になっているだけのことでしかない。
好きだから知りたいのではなく、嫌いなものを確認しておく作業であったのだから、好きな訳でも興味や趣味が高じた訳でも何でもない。
「そっか、拓って随分立派な図鑑持ってたもんね。だいぶ前じゃない?あれ買ってもらったのって」
思い出したように言うと、うーんと考え込む。
「でも拓はそんなに喜んでなかったような……」
「父さんと母さんが勝手に興味を持ったと思い込んだだけだったからだよ。別に植物が好きだとか、そういう訳じゃないのに」
「そう?でもおじさんたちがそう思う何かがあったってことでしょ。何かあったっけ?」
「……忘れたよ」
何となくだけれども、ネガティブなきっかけであることを言うことが躊躇われて言葉を濁す。だが、彼女はそれを許してはくれなかった。
「何かあったような気がするんだけど……」
彼女が眉間に指を当てて考え込んだ所でちょうど駅に着く。薄暗い駅舎を通って古ぼけて開け放しになっている木造改札を通り抜け、既に使われていない二番線を越えてプラットフォームに上がると、眼前に新緑の絨毯が広がる。
「あ」
その光景を目にした彼女が、その先にある川を思い出したのだろう、小さく声を上げた。
「あれでしょ。ほら、拓がクローバーの花を見て嫌がったやつ」
「シロツメクサな」
「いいでしょクローバーで」
「まあ同じことだからいいけどさ」
「真っ白な花だけ残して、それ以外のをむしっては川に捨ててたじゃない」
「猟奇的な言い方するなよ。よく覚えてるね」
「割と衝撃的だったからね」
プラットフォームのいつもの場所に立ち、思い出したかのように眉を潜める彼女。言われて見れば確かに奇矯な行動かも知れないが、小学校低学年くらいなら大人では思いもよらない突飛な行動くらいするのではないだろうか。
「白い花を見てきれいだって言ってたのに、突然白くないのを片っ端からむしろうとするんだよ?傍から見たら怖いって」
コートの襟元を合わせ直してぶるりと震えたのは未だ肌寒い風のせいであって、決して幼い彼の猟奇的行動を思い出したせいではないと思いたい。
そんなに猟奇的だったか、と悩んで口を閉ざす彼をそっと窺いながら、
「……でもほんと、大人になったね」
「え……何だよ気持ち悪いな」
「なによもう。たまには褒めてあげようと思ったのに」
むくれながらも彼女は視線を離さず、半歩後ずさって彼を眺める。
「大きくなったのもそうだけど、子供の頃の拓って潔癖症って言うか、混ざりっ気ないきれいなものしか許さないって言うか。そんな雰囲気あったけど、それが緩和されたなって」
「そうかな……そんなことないと思うけど」
間が空いてしまった理由はふたつ。
異物を許せない性格を自覚していたということと、そんな自分の理想を彼女に求めてしまっているのではないかと気づいてしまったこと。
冬休み、洋介に聞いたことは未だ彼の中で棘のように突き刺さって抜けていない。
彼にとって彼女は、幼馴染であり彼のことを知っている彼女でなければならないと同時に、彼女の中に彼以外の存在が混じっていることは許せなかった。それが幼い独占欲によるものだということもわかってはいるけれども、どうしても許容できるものではなかったのだ。
あれは彼女に混じる不純物だ。
物心ついた時から一緒にいる、彼にとっての彼女を構成するには不要なものだ。
だから。
けれども臆病な彼は、それを問い質すこともできず曖昧に笑い、線路に伝わる電車の音に紛らわせた。
「あ、川越君」
昼休みの渡り廊下。
四限の古文でミスした品詞分解に悩みつつ職員室から戻っていた彼は、後ろから声をかけられて振り返る。
「日和先輩。どうも」
「管理棟?呼び出されでもした?」
教室棟と管理棟を結ぶ渡り廊下は吹き晒しの一階と屋内になる二階、屋上通路となる三階があるが、彼ら二年生の教室は三階だから冬や雨でもなければ三階を使うことが多い。気候の良い時期に、わざわざ上級生しかいない二階に降りてから渡ることは何となく気が引けてしまうので。
「いえ、ノートを提出した帰りで」
ついでに彼女のクラスを覗いてみようと思った、という言葉はもちろん飲み込んだ。
「ふぅん。さっき和も職員室行ってたけど、会わなかったんだね」
「和ちゃんが?いえ、会ってませんね……何で職員室に?」
話題が彼女自身のことだから、今度は飲み込まずに尋ねる。
日和はそんな彼の隣で立ち止まると、
「進路調査票。なんか、悩みすぎて提出遅れたみたいよ」
「悩む?」
確か彼女は県立大学ではなかったか。訝しげな表情にその思いが出たのだろう、日和はひとつ頷くと、
「ああそっか。確かに川越君には言いづらいかも」
渡り廊下の窓から中庭を見下ろす日和の表情が見えない。その先を聞きたいのか聞きたくないのかわからなくなった彼は、会話を避ける様に彼女から視線を逸らした。
「和が言ってないなら、私から言うわけにはいかないかなぁ……あ、でも別に隠してるんじゃないと思うよ。川越君とは学年が違うからタイミングがなかっただけだと思う」
ガラスに映る彼の表情から察したのか、日和は慌てて中庭から視線を剥がして言い募った。
「私なんかもさ、お兄ちゃんの進学先なんて決まってから初めて知ったくらいなんだから。実の兄妹でもそんなもんだよ。関係が近かれば近いほど言うタイミングを失うことって、あるでしょ」
日和先輩はきっと好い人なのだ。ただ、自分と彼女との距離感と違うだけで。
それは余人にわかる訳がないのだから、彼が今こうして言い訳じみたことを聞くだけで不快に感じていることを責めるのはお門違いだ。
そう彼は理解していたけれど、込み上げる嫌な感じは押し止めようもなかった。
彼に向かって話す彼女とは逆に、今度は彼が中庭を見下ろす。
食事が終わって談笑する生徒たちが見える。中庭のベンチに座って一緒に食事しているのは彼のクラスメイトだ。最近付き合い始めたことは知っていたが、ずいぶん堂々といちゃついている。
こうして学校でも同じ時間を過ごせることは、同級生の特権なのだから、それ自体を責めるつもりなんかないけれど、同じ学校に通っていても違う学年である彼にはどこかもどかしさを感じてしまう。とは言っても、彼女がひとつ年上だからこそ、先に進学した彼女を追いかけることもできたのだ。いくら幼馴染でも同い年だったらきっと、同じ学校に行こうなんて恥ずかして言えなかっただろう。
きっと次も同じだ。
彼女は先に進む。
自分は追いかける。
けれど、こうして朝待ち合わせて同じ電車に乗り、学校でだけ違う時間を過ごして帰りも同じ無人駅で降りるということはなくなる。県立大学がどんなところか彼は知らないけれど、どうしても頭にあの大学生がちらついて苛立つ。
目の前で何とか彼の雰囲気を戻そうとする日和の兄なのだから、こう思うのも失礼かも知れないけれど。
「すみません、気を遣わせて。いや別にいいんですよ、和ちゃんがどこに進むかなんて、そのうち話してくれるでしょうし」
ようやく言葉は絞り出せたが、顔は笑えているだろうか。
「そっか。川越君は?もう進路決まってるの?」
うまく表情を作れたかどうかわからないが、日和がさらりと流してくれたことに安堵する。
「まだ二年になったばかりなんで、全然考えてないっすね」
「まぁ進学校でもないしね。早く自由になるお金が欲しいから就職するだとか、そんな感じが多いよね、うちの学校って」
「先輩も就職で?」
「ううん。一応進学だけど四大行ってまで勉強したいことなんてないし、指定校推薦で県立短大」
「指定校推薦……そっか、そんなのもありますね」
「楽だよー。中間期末だけ頑張っておけばいいんだから。四大で一般入試だとこれから一年ずっと勉強でしょ。めりはりつかないからキツそうで私には無理かな」
なるほど、と彼は大きく頷く。話が彼女から逸れたことと、日和が気楽な話し方をするものだから大分気持ちは落ち着いてきたことに心中で感謝する。
「そうは言っても大したところはないんだけど。最高で県大だけど枠が一人だからね。競争率高いから今の段階でそれなりの所の枠を確定しておく方が良いと思って」
「賢いっすね」
彼が苦笑すると、
「賢くないから立ち回りで狙うんだよ」
それもそうかと思う。本当に賢いのは一般入試でそれなりの大学を目指す人たちなのだろう。が、それは教師や学校から見た賢さであって、彼女のような立ち回りで適度な生き方を狙うのが高校生的な賢さなのではないか、とも思った。
そう彼が言えば、
「川越君はそのタイプじゃなさそうだよね。和に似てるもん」
「そう……ですかね。わざわざ苦労したいとは思いませんけど。先輩みたいに省エネでうまくやれるならそうしたいですよ」
彼女と同じ時間を過ごしたいだけであって、大学で何を学ぶか、その先に何があるかなんて考えていない。刹那的と言われればそうなのかも知れないが、田舎の小さな現実しか知らない彼にとってはそれで精一杯なのだ。
だからそうなるためなら苦労も厭わないが、それに無関係な苦労など進んでしようなどとは全く思わない。
「卒業した後のことなんて、まだ考えられませんし」
思考が彼女のことに及んでしまったことにしまったと思うものの、表情や口調に出るようなヘマを今度はしなくて済んだ。
が、目の前に立った彼女は覗き込むように下から彼を見上げ、春の陽射しに薄茶色の目を輝かせながら、
「そう?」
「え……そうですよ」
見透かされているような気がして目を逸らしたくなるのを辛うじて堪える。一緒に過ごした時間の長さで自分を知られているのとは違い、彼女の目線は強引に引き出してくるような怖れを感じてしまった。
中庭から聞こえてきた生徒たちの歓声が遠く感じられるが、じっと見つめてきたのはほんの数秒だったろう。
「そっか」
ふい、と目線を下げた彼女は薄く笑うと、ぽんと彼の肩を叩いて教室棟へと足を進める。
彼の横をすり抜ける時に聞こえた言葉は、何気ない先輩からのアドバイスのようでありながら、彼の心にはなぜか深く沈殿した。
「後悔はしないようにね」
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