「一」

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「一」

頬を刺す冷えた風に、男は思わず震えた。 あと少しで峠を越えられるのに――。 被る笠の下から見上げた先、東の空には、鉛色をした雲が。この空模様に、冷え込み具合……、恐らく雪が降る。 案の定、重く陰る雲間から、ぱらぱら小雨が降り始めた。 「雪になるか――」 誰に聞かせるわけでもなくぽつりと呟き、男は()いた。 小雨は、みぞれへ姿を変えた。確実に、雪になるだろう。こんな所で、ふぶかれては、たまらない。 馬にまたがり行き来できる身分ではない。自分の足だけが頼りのただの小商人。 子供の頃から荷を背負い、親方と諸国の山道を歩き続けてきた。もう三十路過ぎだが、しかし、足腰には自信がある。 男は、大きく踏み出し、道を行く。 下り坂、勢いもつき男の足は軽くなり、あっという間に峠を越えた。 山と里の天気は異なる。 男に降りかかっていたみぞれは、下界の空気に解け入って再び雨へ変わっていた。 しとしと降るそれは、男の衣に染みを作り始めている。 集落まで、あとどのくらいだろう。日はまだ高いが、このままでは、濡れそぼってしまう。 脇にそれ、木立ちの中で、やり過ごそうか。 ただ、冷え込みが気にかかっていた。この冷気は、雨を雪へ変えるはず。 早く里へ入り、宿を見つけるべきだが――。 皮衣(うわぎ)を羽織ってなかった事を男は後悔した。 加えて、土地勘がない事で、男は、立ち往生していた。しかし、迷っていても(らち)が明かない。 とにかく歩み続けた。 進めば、里に必ず入る。そこで軒先を借りる方が、木立ちの陰よりずっとましだろうと、自分を励まし、雨のなかを行く。 しばらく進むと、粗末な楼閣門が見えた。どうやら、寺のようだ。 人の気配を感じたからか、気が緩んでしまい、急いて歩いた疲れに襲われた。 履く(くつ)が、足に食い込んでくる。 やもうえない。 いっとき、雨宿りをさせてもらおうと、男は門を潜った。
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