電車の酔っ払い

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 電車が駅に着く。  私はドア近くの席に座っていた。  開いた扉は向かい側で、車内から降りる人はおらず、数人の乗客がホームから中に入ってきた。  座席はほぼ埋まっている。いまさっき乗り込んできた二十代の男ふたりが向かい側のドア近くに立ち、テレビドラマに出ていた女優の年齢と顔立ちの話していた。  車内は落ち着いていて、あと数秒で発車メロディと共に扉が閉まり、電車が動き出すだろう。私はスマホに視線を落としかけたとき、視界の上部で揺らぐ影を感じた。  向かいの席に座っていた白髪の爺さんが立ち上がっていた。今頃到着した駅に気づいて降りるらしい。ゆっくりとした動作と、うつむいた頭と、ふらついた足取りは、かなり酔っ払っているようだった。夕方に酔っ払っているのは、昼間から飲み始めたということだ。老人の身なりは、汚くもなく、安っぽくもなく、逆に高級な服でもない。よく見かける高齢者独特の灰色だった。  私は朝早くから夜遅くまで働きながら安い給料で暮らしているので、昼過ぎから酒を飲める目の前の老人に苛立ちが湧いた。見た目では分からないが、金持ちではなくても贅沢に時間を使って、食べることにこれから先も苦労しない人間がいるのだ。私は自分の感情を抑え込むようにして視線をふたたびスマホへ戻した。  発車のベルが鳴る。  同時に、ドア付近の男たちから言葉にならない声が上った。  乗客の視線が男の見つめる視線の先へ重なった。  外に出た白髪爺の頭部が、ホームドアの陰に沈んでゆく。  ドア付近にいた男のひとりが、閉まりかけた扉に身を乗り出してわざと挟まれるように止めていた。  ドアがふたたび開き、停車を知らせるアナウンスが電車の外と中に流れる。  私の席からはホームドアの陰でわからないが、白髪爺さんが倒れたままのようだ。ドアに身体を挟んで出発を停めた男がしゃがんで話しかけている。  同じ車両の離れの席にいた女性が急に立ち上がり、ホームへ出て白髪の爺さんのもとへ駆けつけると、大丈夫ですか、と緊張した声で何度も話しかけている。  白髪爺の、だいじょうぶです、ア、ダイジョウブデス、という言葉が、小さな棘のように私の身体へ張りく。ゆっくりとイライラが募ってきた。  ようやく駅員がやってきたが、白髪爺は立ち上がると、ダイジョウブだいじょうぶを繰り返しながら歩き始めた。足取りは相変わらず遅く、フラついて、ホームを斜めに進んでいる。  白髪の爺は今の騒動を明日まで覚えているだろうか。泥酔したが何事もなかったと勘違いして、すぐに忘れてしまうのではないか。電車を停めてまでホームに飛び出して助けを呼んでくれた男がいたとか、声をかけてくれた女がいたとか、心配され介抱されたことすら酔いの中に消えてゆくにちがいない。  はっきりしているのは、ひとりの酔っ払った老人のために電車が止まって、多くの乗客が足止めされたという事実だ。  私の苛立ちは、世間にあふれる不条理への怒りからすれば、ごくごく小さなものだろう。まったく大人げないものだろう。大人ならば怪我をしなかった老人へのいつくしみを考えるべきなのだろう。  だが、私の感じた苛立ちも事実だ。酔っぱらいが大嫌いなのだ。  あの老人は、明日からまた平然と昼間から酒を飲み、帰り道で酔い潰れて、いろんな人に迷惑をかけながら、フラついた足どりで家へ帰るのだろう。  どれだけ気楽な生活をしているのだ? どれだけ無責任な行動をとっているのだ? どれだけ恥のない人生を送っているのだ? 大事に至らなければ何をやってもかまわないのか??  走り出した電車のなかで、私の胸にわだかまった感情が長い間渦巻いていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!