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「てめえ、ざけんじゃねーぞ、おっさん! 逃げられると思ってんのかよ!」
きゅんとなりかけた私の心臓が、恐ろしい罵声にぎゅっとしぼんだ。
私にぶつかった若い男が、道端に倒れた中年男性の胸倉を掴みながら叫んでいる。その迫力たるや、まるで闇金の取り立てみたいだ。
「チッ」
えっ、今このアスリートなイケメンが、舌打ちした?
私が驚いて顔を上げたのとほぼ同時に、禍々しい顔つきに変わった強面のイケメンが、支えていた私の体を離して彼らの方に足を向けた。そしていきなり若い男の方を容赦なく蹴飛ばす。
男は、「グハッ」と情けない声を発し地べたに倒れた。
ちょ、ちょっと待ってよ。いったいこれ、どういう状況?
訳が分からずパニックになっている私の横で、蹴飛ばされた男も目を白黒とさせている。
「わ……若っ!」
「若じゃねえ、つってんだろ!」
「す……すいやせん、課長!」
「もっと紳士的にふるまえ!」
「は、はいっ」
なにこの謎な会話。もしかして、この二人って反社な人たち?
ふと湧き上がった疑問だったけど、そう考えたらすべてに合点がいくような気がした。
まずくない? 変な人たちと関わりあったら、きっと碌なことにならないよ。
ゲシゲシと数回男を足蹴にした強面が、ようやく気がすんだのか腰に手を当てため息を吐く。そして私が見ていることを思い出したのか、くるりとこちらを振り向いた。目が合った私は、驚いて飛び上がってしまう。
「し、失礼しました!」
もうなんにも考える余裕なんてない。私は反射的に謝り、脱兎のごとく走り出した。身体はがくがくと震えている。おそらくきっと不格好な走り方だろう。
だけどそんなことに構ってなんていられない。とにかく必死で逃げることしか考えられなかった。
はあっ、はあっ、はあっ。ああ、苦しい。
久しぶりの全力疾走に息切れして、もう一歩も走れない。よろよろと建物の陰にしゃがみ込んで一息ついた。
強面だけど素敵な人だと思ったのに、とんでもなく怖い人だった。
あっ、そうだよ! あれって、通報するべきだったんじゃないの? 怖さが先立って、思わず走って逃げて来てしまったけど。
我に返った私は、人としてありえない選択をしてしまっていたことに気がついた。戻らなければ。
全力疾走でだいぶ体力を削られてしまっていたけれど、出来る限りの速歩きでスーパーの前まで戻った。
戻ってみて拍子抜けした。
なんにもなかった。さっき騒動が起こっていたような名残も形跡もなにもかも。
女子高生は笑いながら通りすぎていくし、仕事帰りらしい人たちは疲れた顔で家路を急いでいる。
あの後、あの三人は一体どうしたんだろう?
胸の奥に、ごわごわとした嫌な気持ちが残っていた。それは見て見ぬふりをして逃げてしまった、私の後悔の跡だった。
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