2話 上司の声は神の声

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「分かってるなら聞かないでください。じゃあ、とりあえず試してみる日取りを決めましょうか」  その代わり俺も困ったら助けてくださいよ、なんて言う必要はない。この人はもともとそのつもりだ。多分こうやって部下に頼んでしまっている時点で責任感を感じているだろうから、こっちから言わなくても返してくれる。  それに俺だって見返りがほしくてやるわけじゃない。気に入ってる人が本気で困ってるのに、手伝わないほど俺は血の凍った人間じゃない。  次の休みに安堂さんの家でとりあえず試してみることに決め、ようやく2人でパンケーキを食べ始めた。 ✳︎ ✳︎ ✳︎ 休み当日。ついにこの日が来た。 俺は普段着にリュック、紙袋の装備で安堂さんが住んでいるアパートの前に立っている。まだ女装はしていない。女装してから行くと部屋に入れてもらえない可能性がある。 それにしてもでかいアパート。家賃高そう。築年数もかなり短く見えるし。と、こんなところで油を売っていても仕方ない。アパートの入り口でインターホンを鳴らしてオートロックを解錠してもらい、指定された部屋へ向かった。  インターホンを鳴らすと、思ったよりすぐ安堂さんがドアを開けて顔を出した。 「悪いな、休日に手間取らせて」 「気にしないでください。遊びに来たくらいの気持ちでいますから」 「だといいが……まあ、とにかく上がってくれ」 扉をくぐって中を見渡し感じたことは、想像以上に綺麗に掃除してあるな、ということだった。 そう、これはまるで、彼女を初めて呼んだ時の高校生の部屋。 「……安堂さん」 「なんだ」 「緊張してます?」 「うるさい、やっぱ黙って入れ」 俺の指摘は図星だったようで、「どういう扱いで招けばいいか分からなかったんだよ」と言い訳を呟きながら部屋の方へ入っていった。これ以上言っても気の毒なので黙って俺もその後に続く。部屋の中の家具は白とネイビーで統一されており、安堂さんらしいシンプルだが品のある雰囲気があった。  とりあえず荷物を床に下ろすが、だからといって女装以外にすることもないので、女装のセットだけ手元に戻す。 「とりあえず、俺着替えてきてもいいですか」 「あ、あぁ」 あからさまに動揺されると伝染しそうになるからやめてほしい。まぁ、どうしようもないことだから諦めるが。  脱衣所を借りて、履いてきた黒のジーンズを脱ぐ。上はもとから着てきたオーバーサイズのパーカーをそのまま使う。ストッキングと膝丈のタイトスカートを履いて、次はウィッグを取り出した。今回持ってきたのは、ブラウンのセミロングだ。ネットで髪をまとめ上げ、ウィッグを取り付ける。 ここまでの状態を鏡で確認した。うん、これだけで普通に女子だな。ただ、俺の面影を感じてまともに試せなかったら今日来た意味がなくなるので、最低限のナチュラルメイクはしておく。 よし、これでどこにでも居そうなタイプの女に仕上がった。 一度深呼吸をして、気持ちを整える。 よし、行くか。 「安堂さん、準備できましたんで部屋入っていいですか」 「……分かった。とりあえずドア開けて中に入ったら、それ以上近付かず待っててくれ」 声から安堂さんの緊張が伝わる。ひとまず指示通りに部屋に入って、そのままそこに立った。安堂さんは目をつむったまま離れたところに立っている。 「……目、開けないんですか」 「頼むから急かすな。開けるから」 そう言うと、恐る恐るといったふうに堅くつむっていた目をゆっくり開けた。そしてバッチリ目が合う。 その瞬間、安堂さんの顔が分かりやすく赤くなった。 「ーーどうやら、ちゃんと女に見えてるようでよかったです」 「良くねぇよ、バカ。クソ、会社じゃこのくらいで顔熱くなんねぇのに」 「ということは、一応公私の概念はあるみたいですね。朗報ですよ」 もうすでに直視できないようで、安堂さんは手で口元を隠しながら目を逸らしていた。
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