2話 上司の声は神の声

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「……お前の顔が良すぎるせいな気もするが」 「じゃあ俺で慣れたら怖いもんなしじゃないですか。一挙両得ですね」 「バカか、ポジティブすぎんだろ」 一応会話はしてくれるがかなり余裕がないようで、いつもの紳士的な喋り方ではなくなっていた。呼吸も、いつの間にか深呼吸へと切り替わっている。  しかし、慣れるためのリハビリはこれからだ。もうちょっと頑張ってもらわないと。 俺がおもむろに一歩踏み出すと、明らかに安堂さんは警戒を強めた。 「バカお前、近付くな!」 「近付かないと試せないでしょうが」 「いや、まず、順を追ってだな!」 「じゃあ、そこのソファに座っといてください」 俺の言葉に、おそらく訳も分からないままソファに腰掛けた安堂さん。なるほど、この時点でかなり思考が鈍ってるな。もし仕事でこうなったら割と致命的だ。  などと考えつつ、前置きなしにソファの横に座る。 「っ!?」 「安堂さん、まだ動いちゃダメですよ」 「は、お前、殺す気か」 「なるほど。隣に座られるのはかなり苦手みたいですね。汗もかいてるし。気持ち的にはどうですか?」 「拷問してぇのかおい」 「なるほど」 この前の件から、接触に問題があるかと思ったけど、近いだけで大分アウトみたいだ。 しかし、まだだ。 まだデッドラインではない。 「安堂さん」 「もう離れていいだろ!?」 「ダメです」 「何でだよ!これ以上なんかされたら持たねぇんだよ!今日はこのくらいでいい!これ以上はお前にも負担がかかる!」 やっぱり。 どうせそんなことを考えて、俺が困らない程度にとか遠慮してるんだろうと思っていた。それじゃあいつまで経っても、安堂さんは本当の意味で慣れることができない。 「ダメです、俺が頼まれたらとことんやる人間なの知ってて頼んだんでしょ」 「っ……」 「自分じゃ相手に気ぃ遣って安全マージン取るから、だから俺に頼んだんでしょ」 多分、今が本当に試されている時だ。この前ファミレスで話した時ではなく。ここで踏み込めないようなら、安堂さんはいつか笑って「困るようなこと頼んで悪かった」と諦める。 それなら、踏み込むしかない。 俺は安堂さんの手を握った。 振り解かれないように思いっきり。 完全にフリーズした安堂さんに、伝えるべきことを伝えた。 「俺は覚悟できてますよ。どんな安堂さんでもちゃんと受け止めますから、遠慮せずリハビリしてください」  長い沈黙が続いた。 安堂さんは顔を伏せたまま硬直している。 ……とりあえず、近付いて手を握ったら機能停止することが分かった。この辺がギリギリのラインかな。  そんなことを分析している最中に、ゆらりと目の前で顔が上がるのを感じた。 ようやく顔を上げたが、表情がいつもの安堂さんとは全く違った。余裕のない、それでいてどこか吹っ切れたような。赤い顔で汗を垂らしながら、ニコリともしない。 「はぁ〜、そうかよ」 低く、イラつきのこもった声が頭に響く。 「おい、ちゃんと受け止めろよ」 次の瞬間、身動きが取れなくなった。 何か言うより先に、思いっきり抱きつかれていた。身じろぎしようとするが、ウィッグの髪が乱れるだけでびくともしない。 「安堂さーー」 「うるさい」 パーカーから見えていた鎖骨に噛みつかれる。 「っ……!」 じんわりとした痛みが広がったかと思うと、そのまま鎖骨から首筋にかけて、窪みに沿うようにベロリと舐め上げられた。そのまま2、3回首筋も甘噛みされる。 形容しがたい感覚が体を走り、身震いした。 「どうした?怖いのか?なぁ、おい」 耳元で低く掠れた声で囁かれて、また身震いしそうになるのを必死で堪える。体勢を整えるために足を動かそうとしたら、硬いものに当たった。 ……どうやらデッドラインギリギリではなく、大きく飛び越えてしまったらしい。 突然のことで動揺したが、ようやく現状を把握した。 ひと呼吸入れた後、パーカーの裾に手を入れようとしている安堂さんの耳元で、今度は俺が呟く。 「そんなわけないだろ。ビビってないでさっさと来い」 腕がピタリと止まる。 「お前……マジでどうなっても知らねぇからな」
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