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1話 人の秘密は知らない方が吉
コーヒーの匂い。タイピングの音。
ブラインドから漏れる光は1ヶ月前に比べてかなり暑くなった。それでも全部署エアコンを自由に付けてよく、さらに設定温度も自由に変えられることを考えると、我が社の働く環境は割と良い。
……まあ、あくまで環境の話だが。
「なぁ七海〜、ちょっといい?」
機嫌をうかがうような何とも言えない声色。いい話の予感がまるでしない。
「…………ノルマなら自分でなんとかしろ」
「あああああああやめて助けて見捨てないで取れそうな案件紹介してぇぇ!」
取れそうな案件がそうホイホイ簡単に転がっていてたまるか。
「七海はどうせ順調なんだろぉ!?」
「それはまぁ、今月の達成ラインは一応終わったけど」
「ほら終わってんじゃん!」
「一応、だからな。余裕はない」
「8万でどう?」
「不正するな」
「デスヨネー」
どの会社にも営業なり売上なりノルマが付きまとうのは世の常、かく言ううちの会社もその例に漏れない。同僚の松田は悲壮感漂うため息を垂れ流しながら俺の肩に体重をかけてくる。
「…………」
いやデータ入力やりずら。
「松田」
「売ってくれる!?」
「いや売らんて」
俺に体重という名のプレッシャーをかけながら、分かりやすく肩を下げる。まだ年度始まって数ヶ月にしてこれはさすがに先行き暗黒すぎじゃないかこいつ。
「……とりあえず、お前が今持ってる案件を見る。見落としてるだけで行けそうなのあるかもしれんし」
今にも死にそうだった顔が一瞬ぽかんとしたかと思うと、すぐに渾身の輝きに変わった。
「いいの?見てくれるの?」
露骨に顔をキラキラさせている。松田の奴、絶対最初っからこの流れに持ってくつもりだったな。
まあでも、言ったものは仕方がない。
「その代わりコンビニでいいから昼おごれよ。ついでにその時資料持ってきて」
「持ってく持ってく!いやぁやっぱり、持つべきは優秀な同僚だなあ!!」
「普通の業務成績だからこれが」
最後のセリフは言ったものの全く松田の耳に入っていない。コミュ力お化けめ。こんな感じで毎回ノルマ乗り切ってるんだからすごいんだか、すごくないんだか。
松田は俺との約束を無理矢理漕ぎ着けると、鼻歌を歌いながら上機嫌でオフィスの自席へ戻っていった。
大学を卒業し、入社して3年目。
それなりに大きいところのため、ノルマが大変な部分もあるがうまくやれている……と思う。残業も忙しい時くらいしかないし。愛想が悪い自覚はあるが、周りは普通に接してくれるし。仕事はまあまあ順調だ。
そして何より上司がいい。
そう、上司がいいのだ。神上司。1年目の時指導についてくれた上司が、アポの断られない取り方から商談の進め方、揉めた時の対応まで教え方が全て上手いわ、疲れて死にそうだった時は一緒にリフレッシュ休暇を申請してくれるわ、しくじりはカバーした上で励ましてくれるわで、一生この人の下に居たいと心から思える神上司だった。現在も直属なのでかなり良くしてもらっているし、居心地も最高によい。
ノルマは正直キツい。しかし、あの人に教わった以上は、俺が使えない人間であってはならない。実際もし違う人間に教わっていたら、ちゃんとノルマ達成できていないだろう。
最近はもうこれが仕事のモチベーションの大部分を占めている。
そう、どれだけ仕事内容が辛かろうとも、この環境を手放したりしない。あの人がいる限り、俺は絶対に転属希望を出さない。
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