狂いへの揺り

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 個室に着いた。その途端、ほっとして膝の力が抜けた。  笑いが止まらない。さすがに声は上げられないので喉で押し留めているが、そのせいで肩が震える。看護師さん、お願いだから早くどこか行って、と心の中で訴え続けていた。  看護師は「何かあったら言ってね」とだけ言い残し、桃子を置いて部屋を出ていった。  ドア閉まるのとほぼ同時に「ふふ……」と笑い声が漏れた。よかった、全て、うまくいった、と心の中でガッツポーズをとる。  ようやく本当の私に戻れる――。  橙子が芸能界に入って有名になってから、桃子の日々は最悪だった。  橙子の軽率キャラが広がり、ネット上には橙子への悪口が増えた。と同時に、桃子への悪口も増えたのだ。どうして姉妹で(くく)って見られるんだろう。ほんの些細なことでも、姉が姉なら妹も妹だな、と身近な人からしょっちゅう悪口が書き込まれる。  悪口なんて、慣れるはずがない。ネット上の悪口の羅列を初めて見た時、桃子は愕然とした。  どうして? 私は、こんなにも真面目に生きてきたのに。今まで褒められたことしかなかったのに。  昔から自分は真面目で、加えて優しく可愛く、言わば特別だった。周りの人からは常に羨望の眼差しで見られていた。怒られた記憶もない。それが日常だった。  橙子が芸能界に入ることも、最初は嬉しかった。これでまた一層、私に向けられる視線が特別なものになる。姉が有名かつ人気になれば、自分もつられて人気になるだろうと予感していた。姉に比べて劣っていれば何か言われるかもしれないが、むしろ優れているのでそんな心配はない。  しかし、結果はこの(ざま)だ。悪い方向に引っ張られている。  橙子だけが悪口に晒されるなら別によかった。それなのに、自分と姉は似ていると一括りにされ、攻撃される。疑問だった。私のほうが素敵なのに、姉と似てる? 姉はダメだけどそれに比べて妹は素晴らしい、でいいのに。なぜ?  いつの間にか、自分にとって姉は、ゴミでしかなかった。近くにいるだけで、ゴミに群がってきた虫が、自分のほうにまで寄ってくる。しかも橙子は自分だけ被害者(づら)をして、桃子の状況など考えていない。  自分でも、これほどまでに憎悪が降り積もっていくなんて思ってなかった。  あの日、桃子は駅で橙子に見つかって、仕方なく一緒に帰宅していた。 「あたし、もう芸能界やめようかな」  そう言われたあの時、桃子はちょうどスマホを見ていた。『あんな軽い発言しといて、もし百合川橙子がいきなり芸能界やめるとかなったらさすがに軽蔑する』という書き込みを見た直後に、この言葉だった。  橙子の言葉を聞いた瞬間、降り積もっていた憎しみが一枚、ついに桃子の器の外に零れ落ちた。  逃げるの? 私をこれほどまでに巻き込んでおいて? 責任も取らず?  どうにも抑えきれなかった。そして、カッとなった頭に、あるアイデアが降ってきた。  だったら私が、根本から変えてやる。
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