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人恋しい季節になった。本田はマフラーを首にぐるりと巻き付け、冬の夜空をひとり、歩いていた。
三年付き合っていた彼女に振られたのはほんの一ヶ月前のことだ。好きな人と付き合っているから別れてほしいと言われた。二股をかけられていたことも、彼女の心が自分から離れていることにも、本田は全く気が付かなかった。我ながら鈍感だと思う。別れたのは12月の始め。ちょうどクリスマス前だったから、彼女なりに今の付き合いに区切りをつけて、それまでの重い荷物は捨てて、新たに恋した男と次のステップに進みたかったのかもしれない。
呆気なく振られた本田は、クリスマスも大晦日もひとりで過ごした。別れを告げられたことも、愛した人間に去られたことも、本田の中ではそれなりに傷ついた。しかし師走というものはありがたいもので、仕事が普段の倍以上降り注いだ。残業に追われながら他の社員は早く家に帰りたいとぼやいていたが、本田からすると自分ひとりの寂しいアパートの部屋に帰るよりは、デスクの前で作業に没頭しているほうがよっぽどマシだった。
しかしその忙しなさも年が明ければ過ぎ去った。今日は金曜の夜。会社帰りに居酒屋で少しだけ飲み、少しだけつまみ、そして歩く。なんとなく歩きたい気分だった。あてもなくふらふらするつもりはなかったが、気が付くと知らない道に入っていた。まあいいか、と思う。道に迷ったらスマホの地図で検索すればいいだけの話だ。
本田は通りかかった公園にふらりと入った。誰もいない。ふう、とため息を吐くとそれが白い煙のようにふわりと宙を舞った。気が付くと酒で熱くなった身体も冷えてきている。寒い。足の先も凍ったように冷たい。しかし家に帰る気にはなれない。今頃になってぶり返した失恋の痛みを、家に持ち帰りたくなかった。
暗い公園をずるずると歩いていると、人の言い争うような声が聞こえ、本田の足が止まる。こんな夜に、一体誰だろう? 本田は気になって、声のした方へこそこそと近付いていった。
草むらの向こうに男と女が向かい合って立っている。おそらくカップル。会話の内容こそしっかり聞き取れないものの、声のトーンや彼らの周りに立ち込める緊迫した雰囲気から、痴話喧嘩の類であることが読み取れた。
男がもうお前に用はない、といった感じで女から背を向け、すたすたと無情にもその場から去っていく。女は男を引き留めることもせず、その場に立ち尽くし、顔を両手で覆っていた。泣いているのだろう。
本田はコートのポケットへと手を突っ込んだ。そこにはハンカチがある。
取り残されて今なお泣いている彼女に近付こうとして――迷った。こんな夜に、いきなり知らない男に声をかけられたら、きっと驚かせてしまうし、不信感を与えてしまう。下手したら、勘違いされてその場で警察にでも呼ばれたりするかも――本田は恐怖でゾッとしたが、それでも何故か、女を放っておく気にはなれなかった。
逡巡しつつも、女との距離を縮めると、あの、と彼女の背中に声をかけた。
女がびっくりしながら振り返る。本田も緊張した。そして女が振り返ってようやく気が付いた。勝手に大人――成人女性だと思い込んでいたが、女は制服を着ていた。まだ高校生なのだ。
瞬間、またひやりと背筋が凍る。これは本格的にまずいのでは? 女子高校生に声をかけるサラリーマン。ああ、どう見ても怪しい。自分の脳内会議に思わず苦笑しながらも、本田はぎこちない手つきで、持っていたハンカチを差し出した。
「これ、よかったら、どうぞ」
女子高校生は、目をぱちくりさせながら、本田の顔とハンカチを交互に見やる。頼む。どうか不審者だと思わないでくれ――心の中で祈り続ける。俺は、ただ、あなたのことを、放っておけなかっただけなんだよ――言い訳めいたことを付け加える。
「え……っと、誰?」
女子高校生は顔を顰めて、首を傾げる。本田はまさかそんなことを聞かれるとは思わず、気づけば反射的に自己紹介をしていた。
「本田翼です」
「え? 本田翼?」女子高生が声を上げた。「ばっさーじゃん。モデルの」
フルネームを告げると一番よく言われる台詞だ。本田は苦笑しながら頷いた。
「そうです。ごめんね、可愛い翼ちゃんじゃなくて」
「ううん。っていうか、ありがと」と、女子高生は差し出していたハンカチをようやく受け取ってくれた。そして涙で濡れていた頬をフキフキと拭った。
「これ、汚れちゃった。どうしよう?」
濡れたハンカチには、メイクのラメやらマスカラの黒い跡がついてしまっていた。
「いいよ。あげる」
「え、でも」
「いいから。っていうか、君、家帰らなくて大丈夫?」
時刻はまもなく二十三時を回る。女の子がひとりで出歩くには危ない時間だ。
彼女は本田の顔をちらりと見たあと、地面に視線を落とす。
「帰りたくないんだよね」
本田は女子高生の翳った横顔を黙って眺めた。
「さっきの、見てたでしょ? なんか、言い争ってたら、疲れちゃって」
そして彼女はまた顔を上げた。
「ばっさーは、ここで何してたの?」
「うーん。散歩?」
えー何それ、と女子高生がケタケタと笑った。「こんな寒空の中?」
「うん、そう。なんか色々、嫌なこと思い出しちゃって」
「ふーん。もしかして、彼女に振られたとか?」
本田は驚いて、彼女の顔をまじまじと眺めた。「何で分かったの?」
「え、当たり?」
「うん。当たり」
女子高生がケラケラと笑う。
「マジかー。あたし超能力あるかも」
「うん。かもしれない。すごいびっくりした」
「ばっさーの彼女、もったいないなぁ」
本田は首を傾げた。
「ばっさー、こんなに優しいのに」
彼女は手にしたハンカチをじっと見つめている。
「優しいかな」
「うん。優しいよ」
そうだろうか。よく、分からない。昔から優しいと言われることは多かったが、本田自身はピンときたことは一度もない。
その場でずっと立ち話を続けるのもあれなので、本田と女子高生は並んでベンチに座った。木製のベンチだが、スラックス越しにひんやりとした温度が伝わってくる。
「さっきさあ」と、彼女が言った。「お前じゃだめだって言われたの」
「ほら、あたし化粧とか濃いじゃん? でもあいつはさ、本当はそーゆーの好きじゃなかったみたいで」
確かに彼女は清楚系ではない。どちらかというと華やかでギャルっぽい雰囲気だ。
「そういうのが好きな男もいるよ」と、本田は言った。
「え、いるかな?」
「いるよ」本田はギャル好きの同僚を思い出した。昔から、派手なメイクで着飾った、ゴリゴリのギャルが好きな男だ。「だからそんな男は放っておけばいい」
「え?」
「お前じゃだめだ、じゃなくてお前じゃないとだめだって言ってくれる男がいるはずだから」
「そーかな」
「そうだよ」
濃紺の空に浮かぶ、ぼんやりとした月を見上げた。
「じゃあ、ばっさーもだね」
「え?」
「ばっさーのことが好きで好きでしょうがないって女の子と付き合いなよ。その方が絶対に幸せだから」
「そんな子、いるかな?」
「いるよ、絶対」
女子高生は小さく呟いた。「だってこんなに優しいんだもん」
「言っとくけど」と、本田は口を開いた。「俺、普段はこんなことしないよ?」
「え? そーなの?」
「そうだよ。だってこんな夜にさ、こんな寂れた公園でさ、男が知らない女の子に声かけるなんて、不審者になっちゃうじゃん」
「確かに」
「でしょ?」
「でも、あたしあんまり怖くなかった」と、彼女はするりと言った。「確かに、びっくりはしたんだけど……ばっさーのこと、怖くなかったよ」
正直、それもどうかと思う。が、こうしてよく分からないまま、彼女と何となく会話を続けている時間が、ひどく心地いい。怖がられて、叫ばれて、通報されていたかもしれない未来を考えると、なかなかラッキーだった。
「あーあ。早く新しい恋したいなぁ」
「さすがに早すぎない?」
「だって、失恋しんどいんだもん。早く忘れたくない?」
「確かにね」と、本田は頷いた。「まぁでも、しばらく引きずってた方がいい場合もある」
「え? そーなの?」
「うん。結局あとでぶり返して辛い期間が長引くだけだから」
――そう。今の自分のように。
「そっかー長引くのは確かに嫌かも」
「でしょ? だから大人しく泣いてなよ」
「大人しく泣くって、矛盾してない?」
「してる」
「だよね」
二人でくすくすと笑った。
「いっぱい泣きなよ。そうすればきっと、一週間もすればケロッと復活できるよ、君なら」
「有紗」
「え?」
「あたしの名前。有紗。君じゃなくて、有紗って呼んでよ。ばっさー」
あぁ、と本田は思った。他人行儀なのは好きではないのだろう。
「分かった。有紗ね」
「うん」と、彼女は満足そうに答える。制服のスカートから伸びた足が、プラプラと揺れている。
「じゃあ有紗」
「何?」
「もうそろそろ、家に帰りな」
えーっ!? と、有紗が不服そうに声を上げる。本田はベンチから立ち上がった。
「もうすぐ日付変わるから」本田はスマホを開いた。時刻は23時45分だ。
「でも」と、有紗は名残惜しそうだった。しかし、さすがにまずいと思ったのだろう。本田が強く促さなくとも、黙って立ち上がった。
「家、どこらへん?」
あっち、と有紗が公園の東側の出口を指さす。本田は彼女の示した方向に歩き出した。後ろから、有紗が慌ててついてくる。
「え? もしかしてばっさーもこっち方面なの?」
「違うよ」
「……送ってくれるの?」
「うん」と、本田は答え、立ち止まった。何故なら後ろを歩く有紗の足が止まったからだった。
「どうした?」
有紗は笑って、「何でもない!」と言いながら小走りで本田の隣に駆け寄ってきた。
「ねぇねぇ、ばっさー何歳?」
「二十九」
「えーっ! 大人だぁ」
「有紗からすればおじさんだろ」
「えっと、十二歳差?」
すごい年齢差だな、と我ながら笑ってしまう。
公園から有紗の家までは約二十分だった。無事に任務を果たしたところで、駅まで戻ろうとしたところを、有紗が本田の右腕を掴んで引き留めた。
「ばっさー」
「何」
「連絡先、教えて」
本田は迷った。十二歳差という年齢を考える。その他諸々、様々なことを逡巡した。
「いいけど」と、本田は言った。「このこと、友達とか家族とかに言うなよ」
「うん。分かった」
「本当に分かった?」
「本当に分かった!」
ならいい、と答え、LINEで連絡先を交換する。まさか、女子高生の連絡先がアラサーの自分のスマホに登録されることになるとは。
「じゃあな」
「うん! また連絡するね」
「早く寝ろよ。お肌のゴールデンタイムはとっくに始まってるぞ、JK」
「分かってるよ!」と、歯を出してイーッと見せつける彼女に、本田は笑った。
駅に向かって歩く。あんなに寂しかった夜の空気が、帰り道には本田の身体を温かく満たしていた。
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