1 渇望

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 それは、衝撃。  人間なんて退屈だと思っていた。  興味があったのは動物ばかりだった。  だって、楽しければ笑って、苛立った時には怒って、悲しい時には泣く、なんてわかりやすいんだろうって思った。そんな単純な人間よりも、笑顔も涙も流さないのに表情が生き生きとしている動物の方が興味をそそられる。表情がないはずなのに確かに感情がその表情に浮かび上がる動物の方がずっと面白い。だから、子どもの頃は野良猫を追いかけては写真に撮っていた。  親が使わなくなったスマホをカメラ代わりにして、日が落ちるまでずっと。  ずっと追いかけていた。  初めてだったんだ。  彼は初めて写真に撮りたいと思えた人。  日が暮れてもまだ追いかけ続けていた子どもの頃と同じように、追いかけて、走り回って、いくらでもじっと待ち構えていられるほど。彼を撮ってみたくて仕方がなかった。どうかしてしまったんじゃないかってくらい、好奇心と興味をそそられた。 「はい。それでは笑ってください。あぁ、もう少し首だけこちらに……はい、そうです」  少しどころじゃなく寒いのだろう。花嫁の方が笑顔、とは言い難いほど顔を引き攣らせて、ブルリと震えてしまった。そりゃそうだ。今、一月なのだから。その中、肩が剥き出しのウエディングドレスで屋外での写真撮影なんて寒くて仕方ないだろう。 「はい。それではまた別角度をお撮りしますので……」  けれど人生でたった一度……になる予定の結婚式の一枚に寒さなど気にしていられないと気合を入れて笑顔を見せた。カメラマンがどうやら何か世界的に有名な写真コンクールで賞を獲ったことのあるすごい写真家らしいから、良い一枚を撮ってくれるのだろうと。 「はい、それでは笑顔でお願いします」  静かにそう告げて、再びシャッターボタンを押した。 「はい。もう一枚」  動物カメラマンだった。  海外で、野生動物の写真を撮っていた。世界中を飛び回り、美しく、凛々しく猛々しい、人間など到底敵うことのない生き物を夢中になって追いかけて写真を撮っていた。  その中の一枚が大きな賞を獲得した。  草原をゆったりと歩く豹を捉えた一枚。空と同じ色の瞳で人間の視力では見ることなどできるわけのない遥か彼方を見据え、強靭な脚で大地を踏み締め、どんな生き物よりも美しく、この地球を闊歩する彼を。  そう、笑っちゃうだろう? 俺はその時、その豹をファインダー越しに見つめながら「彼」と思ったんだ。  見れば見るほど生き生きとしていると感じる彼の横顔を見ながら、魅入られたら俺は馬鹿げたことを思った。  俺は、その時。 『あぁ、彼に食われたら、あの手足の一部になることができるのか』  そう思ったんだ。  そう、思いながらシャッターボタンを押した一枚だった。  そして、その写真が高く評価され、賞を獲得し、その写真を含む写真集が売れ、いつしか個展を開くこともできるようにまでなった。  そして生活は一変し、「一流」と言われるカメラマンとして海外を飛び回るようになった頃だった。  海外へとまた写真を撮りに出掛ける途中でだったんだ。  空港近くの路上で行われていたファッションイベント、そこに彼はいた。  名前なんて知らない。  ただ彼は黒いドレススーツを着て、そこを闊歩していた。  その彼を見た瞬間、心臓を貫かれたような衝撃を受けた。  あの日、青い瞳をした「彼」とさえ思った豹と対峙した時と同じ衝撃だった。  けれど「彼」が誰なのかわからないまま時はすぎて、あの時見かけた彼はあっちこっちと飛び回る海外生活とそれの追随する時差ぼけのせいで生まれた幻なんじゃないだろうかと思い始めていた頃だった。  ふと、いつもはあまり見ることのないテレビをたまたまつけていたんだ。ぼんやりと眺めていた大きな画面いっぱいに「彼」が映っていた。俺は突然のことに手に持っていたコーヒーのマグカップを落としてしまったっけ。そして食い入るように画面に齧り付いていた。  名は「ミツナ」。  新鋭のモデルで今とても注目されているとテレビでピックアップされていた。 「それでは、チャペルの方での撮影に移りましょう」  そう告げると花嫁以上に花婿が心底ホッとしたと安堵の溜め息を零し、花嫁はチャペルという単語に表情を一層明るくした。 「チャペルではたくさん写真撮りますから」 『ミツナ』  彼が実在していて、どこかにいる。この日本の。  それを確信できた翌日、今後予定していた海外での撮影を全て取りやめた。  嘘だろう?  何かの冗談だろう?  と、周囲は驚愕していた。動物カメラマンとしての地位は確立されていたし、プロとして申し分ない環境下にいたのだから。  それら全てかなぐり捨てて、スタジオカメラマンに? 頭がおかしくなったのか? と――。  その時、交際していた女性は信じれらないものを目にしたと顔を歪ませていたっけ。 「では、この辺りに立っていただいて……」  もちろん、彼女とはそれっきりだ。 「それでは、いきますよー、」 「だーかーら、お前に撮られたくねぇつってんの」  廊下に響き渡った苛立ちの声にチャペルという単語に胸を躍らせていた花嫁が表情を引き攣らせる。 「いいねいいねって、そればっか連呼されて退屈」  その声に振り返ると。 「飽きた」  そこに、いた。 「でも、そうは言ってもね」 「そうもこうもねぇ。あの無能なカメラマンはうんざりだ。他を寄越せよ」 「だから、そうは言っても」  彼、だった。 「仕事なんだぞ、ミツナ」  ミツナ。 「知るか、それならあのカメラマンこそ仕事しろ」  ミツナだ。 「…………あんた、カメラマン、だよな?」  俺? に、話しかけてる、のか? 「あんただよ。あんた」 「え、嘘、あれミツナじゃん。マジで?」  目の前に。 「カメラ持ってるから、カメラマンだよな? あんたでいいわ。って、あー、もしかして結婚式? とか? ね、悪いんだけど、花嫁さんさ、あっちのカメラマン貸してあげるわ。あれ、芸能人めっちゃ撮影してるカメラマンだよ。知らない? シュタームとかっていうバンド知らない? そのジャケ写とか撮ってんだって。滅多にこんなチャンスないんじゃない? はい、どーぞ、そんで、あんたは」  それは、衝撃。 「あんたは、こっち」  俺が初めて撮りたいと、捉えたいと思った。 「あんたが撮ってよ」 「……」 「俺を」  そう渇望した、その人だった。
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