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闇に馴染む黒髪と白い肌の、美しいおなごが私の隣におりました。纏っている着物は良い物のようですが、こうして夜に外に出て見知らぬ男に直接話しかけてくるのですから、高貴なお方ではないように思われます。
「いいえ」
私はおなごへ答えました。初めて顔を合わせたおなごのようでいて、幾度も言葉を交わしてきたおなごのようにも思えてくる、奇妙な心地でございました。
「初めてではありません。そのように思います。いつ見上げたかは覚えておりませんが……いえ、ずっと前、橋の手前に家屋が立ち並ぶよりも前、橋が幾度か建て替えられるより前、私は星を……自分の屋敷で星を見上げたように思います。……いいや、いつのことであったか、星と共に光を、草原から湧き立つような幾千もの蛍の光を、山の中、川辺で星と共に見上げたような」
「そうにございますか」
おなごはその顔に似合うほほえみを見せました。
「あなた様は随分と前から、あの柳の木の下におりました。それでも、あのいっときを覚えていてくださったのですね」
「あなたは私を知っていたのですか」
「わたくしではないわたくしが、遠き昔、あなた様とお会いしているのです」
私はおなごを見つめました。川の流れのような黒の髪も、月明かりに照る白い頬も、ほほえむ目も、豪奢な着物も、そのいでたちも、全てが美しいおなごでございました。そして私はこのおなごのことを何一つ覚えていないのでした。
「わたくしはあなた様を探していたのです」
おなごは言います。
「幾年もわたくし達の住処へといらっしゃったあなた様を、ある年からわたくし達の元へいらっしゃらなくなったあなた様を、わたくしは幾度もお探ししたのです。前の年、その前の年、毎年、毎年、わたくしは生まれ、飛び、お探ししていたのです」
そして、とおなごは目を伏せ口元を綻ばせました。
「あなた様をようやく見つけられました。幾度も幾度も生まれ、飛び、あなた様をお待ちし、お待ちしきれずお探しし、そして千年の時を終えてようやくお会いできました」
千年、と私は呟きました。はい、とおなごは頷きました。
「千年にございます。あなた様がこの川で亡くなられ柳の木の下で迎えを待つようになってから、千年にございます」
「迎えは来なかったのですか」
「柳の木に隠されたあなた様を、鬼も神も何者も見つけ出せぬままでいたのです。あの柳が今まで、供もなく橋を渡ろうとし渡りきれなかったあなた様をお守りしておりました」
そうであったのか、と私は頷きました。おなごの話はどうにも心地良く、するりと私の中に馴染むのです。確かに私は千年もの間、あの柳の木の下で迎えを待ち続けていたのでしょう。目の前で繰り広げられる時の変化に気付くこともなく、ただひたすらに、来るはずのものを待ち続けていたのでしょう。
「けれど今の私は橋の上におります」
「あちら岸とこちら岸、あの世とこの世、境を繋ぐ橋の上にございます。あなた様はもうおひとりではなくなるのです」
「あなたが迎えに来てくださったからですね」
「わたくしは短命の定めにある身、もうじきあの世へ向かわねばなりませぬゆえ。さ、共に参りましょう」
おなごはゆるりと手を差し出してくるのでした。私はそちらへと手を伸ばし、けれど止め、首を回して橋の向こうを見遣りました。笛の音、太鼓の音、そして灯火。川の向こうにある街の名は祇園であることをようやく思い出しました。あの場所が私の行くべき場所なのでしょうか。そうではなく、この景色は現のもので、私が橋を渡った先にあるのはあの街ではないのやもしれません。あの街よりも明るい、この世のものならぬ街があるのやもしれません。
おなごへ手を差し伸べたまま、けれどおなごの手に触れぬまま、私は橋の上で街の輝きを見つめておりました。そうして隣に立つおなごへ訊ねました。
「私がこの橋を渡ったら、あなたに再び会えるのでしょうか」
「いいえ、わたくしは虫、あなた様は人にございます。わたくしが幾度も生まれあなた様を探し続けたのはわたくしの祈りが山の神に通じたからにございました。あなた様と出会い、あなた様が現から離れることができましたのなら、わたくしがあなた様に再び巡り合うことはありませぬ」
「そうですか」
「はい」
私はフウと息を吐き出しました。そうして目を閉じ、柳の木の木陰と夜の闇と蛍の灯火を思い出しました。
先程まで見つめていた街よりも近く、明るく、仄かな灯火を思い返しました。
「では、私が橋を渡らぬままならば、あなたと再びお会いできますか」
おなごは何も言いませんでした。目蓋を開けてそちらを見れば、おなごは黒く澄んだ目を丸くしつつ私を見上げておりました。
そうして、私の考えていることを知ったかのように、その面持ちを柔らかなほほえみに変えるのでした。
「はい」
おなごはしっかりと頷きます。
「幾度も、幾度も、幾年も、あなた様をお探しいたしましょう。幼き体で生き延び、眠りを越え、翅を手に入れたのならば、すぐにあなた様を探しに飛び立ちましょう」
「ならば私も待ちましょう。幾度も、幾度も、幾年も。橋を渡ることなく、このまま、あなたと再び会う日のために、あの柳の木の下であなたを待ちましょう」
おなごはほほえみます。私もまた、ほほえみます。
「わたくしは参ります。またこの場所、この橋の上、柳の木の下に佇むあなた様と出会うために次の命に向かいます。そうして幾度も生まれては、幾度もあなた様をお探ししましょう」
おなごは橋の隅へと下がります。私は静かにそれを見つめました。
「それでは、また、いつかの夏の初めの頃に」
「それでは、また、祇園が光を灯す頃に」
そうしておなごは橋の上から川へと身を投げました。流れるような黒髪が後引く蛍の光のように線を描き、落ち、色鮮やかな着物と共に私から遠のき、白い肌が見えなくなり、やがて川の上に一つの光が灯りました。
それはスウッと仄かな光の筋を残しながら、星と月の照る夜の闇の中、遠く、遠く、橋の向こう側の光の街へと飛んで行きました。
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