柳に蛍火ともす

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 いつからこの場所にいるのか、私は覚えておりませんでした。何かを待っているような、そうではないような、どちらかというと待っていたものへ付いて行きそびれてしまったかのような、ぽつんとした(わび)しさがあるだけなのでした。  はて、私はどこの生まれのどこの勤め人であったことか。フウと息を吐き出しまして、私は背を伸ばして頭に手をやり、天を仰ぎ見ます。けれどそこに天の青は見えず、枝垂(しだ)れる細かな青葉が暗く私へと覆い被さってくるだけなのでした。私は他にすることもないまま、夜のように黒ずんだ日陰の下で、柔らかにしなる枝とそれに連なる鋭利な葉を見つめました。  随分と長く、この場に立ち尽くしているような気がいたします。周囲を見渡せど見えてくるのは見慣れた光景。行き交う人々や立ち並ぶ家屋に多少の変化はあれど、道なりや遠くの山の形やそばを流れる川の幅、水の色、音、それらは昔から何一つ変わりありません。隣に架かる橋は幾度か建て替えられたような気がいたしますが、いつ何度どのように、というのは少しも覚えておりません。思い出そうとする気にもならぬまま、私はただのんびりと、この木の下から見えるものを眺め続けているのでした。  川を背にした私の前には道があり、幅広のその向こうには木造の平屋が所狭しと並んでおります。人々はその中を悠然と行き、時に屈強な男が押す二輪の車が人を乗せて行き、時に棒の両端に桶を吊り下げた男が声高に何かを叫びながら行くのでした。奇妙なことに牛車はどこにも見えず、誰も烏帽子も被らぬまま、沓とも違う草で編んだ履物を履き、農民にしてはきちりとした身なりをしております。太刀を携えた者も弓矢を手にした者もおりません。稀に直衣に似た、けれどそれとも異なる奇妙な身なりの男達が刀を腰に直接差し、厳しい面持ちで人々の中を歩くばかりです。心なしか家屋の作りも私の知っているものと異なる気がいたします。 「ほら、そちらに寄るんじゃないよ」  ふと聞こえてきた声に目を遣れば、幼子(おさなご)の手を引いた母と(おぼ)しき女がおりました。髪を(かんざし)でまとめて結い上げ、農民にしては鮮やかな色合いの、けれど擦り切れた着物を着、腰にこれまた鮮やかな色合いの帯を巻いた女でありました。 「その木には幽霊が憑いているからね」 「幽霊?」 「遠い昔の幽霊さ。だからその木には近付いてはいけないよ、戻って来れなくなる。一人は寂しいからねえ。――ほら、行くよ。あの寺子屋は時間に厳しいのだから」  母の促しの声に渋々と頷きつつ、幼子は私の背に立つ木を眺め眺め母と共に歩き去って行きました。  そういえば、この木のそばにある川はいつであったか大雨で水嵩を増し、橋の上を歩いていたひとりの男を川へと攫ったように思います。それは大昔のことのようでいて、けれどその一方でつい最近のことのようでもありました。いやはや、何とも思い出せぬものです。私は口元に手を当て考えようとし、そうしてずり落ちかけた烏帽子(えぼし)を慌てて被り直すのでした。  日が落ちると人々の往来はなくなり、家屋にぽつりぽつりと明かりが灯るようになります。それは私が見てきた明かりよりも眩しく、そして多くの家屋に灯るものですから、思わず目を細めてしまうほどでありました。夜ですから私も帰らねばなりません。けれどどうしてかこの木の下から動く気にはならず、そしてどこへ向かえば良いかもわからず、私はただひたすらに立ち尽くすのでありました。  人々の声が遠のき、静まり、月明かりのみが足元を照らす。それを私は夜の闇に馴染むように静かに見つめる。  それは幾度も繰り返してきた夜のように思われます。時に強い風が吹き、時にしんしんと雪が降り、そうしてなお、私は木の下にて立ち尽くしていたように思います。  私はひとりきりにございました。  供もおらず、妻もおらず、ひとつの木の下にて時を過ごし続け、そのことに対して特に何を思うこともありません。  けれど、ある時だけ。  その時だけ、私は。  ――一人は寂しいからねえ。  何も見えない中で目を閉じ、何も聞こえない中で耳を澄ますことが、とても怖ろしく思えたのです。 ***  それは夏の初めにございました。遠くから笛の音が聞こえてくる、夜のことでございました。いつもの通り何もわからぬままひたすらに道の端に佇んでおりましたところ、ふと、私の目の端を光が通り過ぎたのでございます。  冬も変わらぬ色合いを保つ私の背に立つ木、その青葉、それよりは幾分か月明かりに似た、柔らかく小さな灯火。  それを目で追い、私は驚きました。  蛍だったのです。  確かに私の背後には川がありますが、この川は私の知る限り蛍の住まう川ではございません。ここよりも山に近い、それこそ山奥の川辺にて見ることができるはずの物にございます。他に同じ光が見当たりませんので、この一匹のみ、川を辿って降りてきたのでしょう。  驚く私を見定めるように、蛍はスウッと私の回りを飛びました。闇の中にスウッと光が尾を引きました。  闇よりも沈んだ体色の虫の尾の明かりを、私は無心に目で追いました。  それは生まれて初めてのことのように思います。けれどその一方で、以前にも同じことをした気もいたします。目の前で惑う光、それを追い目を瞠り首を動かす僅かな時。  蛍はやがて私に興味をなくしたように私から離れ、川の方、橋の上へと飛んで行きました。それもまた、見覚えのあるような気がいたしました。そうして私は怖くなったのです。あの小さな灯りを失った後の夜の闇を、その中でひとり佇む寂しさを、私は思い出してしまったのです。 「待ってくれ」  誰かが言いました。 「待ってくれないか」  それは久方振りの私の声でした。  生まれて初めて声を出すという動作をしたかのような、不慣れな、張りのない声でございました。誰かに聞かれたのなら恥ずかしさに頬を染めてしまうほどの弱々しい声でした。  けれど、私の心にあったのは恥ずかしさではなく怖ろしさだったのです。  私は足を踏み出しました。曲げたことのない足を曲げたかのような痛みが膝裏にありました。構わず、私は木の下から走り出ました。  初めて、おそらくは初めて、私は枝垂れる木の枝の下から離れました。  そのことに気付いたのは橋の上から川の向こうを見下ろした時でした。木の枝葉に阻まれて見えなかった川の向こう側が、色鮮やかな灯火が幾つも灯った街並みが、夜の闇の中にぽつんとあるのを目にした時でした。  気付けば私は橋の上におりました。烏帽子を押さえながら首を曲げて顎を上げれば、枝葉のない空がそこにありました。  青ではない暗い空。そこに点々と白く浮いているのは星でしょう。そういえば夜の空には星があるのです。 「星を見るのは初めてですか」  穏やかな女の声に、私は顔を下げてそちらを見遣りました。
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