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6 或いは、それ以上を
バイバイ、と耳の怪我が治ったモモちゃんが僕に手を振った。やわらかなピンク色のそれを動かしているのは愛未ちゃんだ。
「悧羽ちゃん、来年も愛未のこと待っててくれる?」
「もちろん。またシャーベットを作っておきますよ。次はオレンジにしましょうか」
わぁい、と目を輝かせる愛未ちゃんはとても愛らしく、一年後の再会が今から待ち遠しくなってしまう。次の夏に出会う彼女はもっと背が伸びて子供から少女らしい顔立ちへと変わり、僕を悧羽君と呼ぶかもしれない。
「ねぇ、悧羽ちゃん」
「ん?」
車へ荷物を運ぶパパとフロントでチェックアウトの手続きをするママを交互に見て、愛未ちゃんが僕の耳元へ背伸びをしてきた。かわいい言葉を期待して膝を折った僕の耳朶に触れた彼女の第一声は、けれど、とんでもないものだった。
「悧羽ちゃん、安西さんと喧嘩したの?」
「え」
「一昨日くらいから全然話してないでしょ」
想定外の指摘に、僕は瞠目した。子供特有の鋭い観察眼恐るべし、だ。
宿の従業員と客という立場上、元々多くの言葉を交わす仲ではないが、堤防での一件以降、確かに僕と彼との会話は減っていた。意識的に避けているわけではない。僕は単純に忙しく、時間的な余裕がないだけだ。
「ちゃんと仲直りしてね。愛未は哀しそうな悧羽ちゃん、嫌だからね」
「哀しそう? 僕が?」
ん、と愛未ちゃんは強く頷いた。都会育ちの小学生は皆、こんなふうなのだろうか。香純はよく言えばおっとりした、悪く言えば平和ボケした子供だったように思う。
環境の違いは人間の人格形成に多大な影響を及ぼすのだと、実感させられた気分だ。
「悧羽君、今年もお世話になったね。鳴実さんはいつ来てもアットホームでいいな。癒やされるよ」
「ありがとうございます、真山様」
荷物の積み込みを終えたご主人がフロント脇に立ったままで話す僕らに歩み寄りながら賛辞をくれたから、丁寧に一礼した。
「来年こそは、悧羽君のお嫁さんに会えるといいなぁ」
「パパ、セクハラっ」
「年々、口が達者になるなぁ、愛未は」
何だかんだと騒ぎながら仲良し親子はフロントを離れ、外へと歩み始めている。駐車スペースへ一緒に出る僕の手を、愛未ちゃんがぎゅっと握るのは毎年のことだ。彼女も別れを惜しんでくれているのだと知り、僕の胸はほんわりと温かくなる。お客さんが帰ってしまうのはこちら側にとっても寂しいし、常連さんならばなおさら、別れ難い気持ちに囚われる。
「ありがとうございました。またのお越しを心よりお待ち申し上げております」
「バイバイ、悧羽ちゃん!」
ハイタッチを交わす、愛未ちゃんの小さな手。どうか彼女たちが無事に自宅へ帰れるようにと祈り、僕は蒼穹を仰いだ。とはいえ、感傷に浸ることが許されるのは彼女たちを乗せた車が角を曲がって見えなくなるまでの数十秒間だけだ。
真山さん一家が泊まっていた部屋には、今夜も予約が入っている。早急に清掃をし、整えておかねばならない。何事も気持ちの切り替えが大切だ。
「悧羽、これからお掃除する?」
屋内へ戻った僕に、待ち構えていたようなタイミングで声をかけてきたのは母だった。
「ついでに安西君の部屋も。散歩に行っている間に済ませてほしいって頼まれたから」
「母さんが頼まれたのに、なんで僕が」
「男の部屋は男が掃除する! 以上!」
安西君の、という部分を耳にした瞬間、心臓が軋んだような気がして思わず反論したけれど、母には僕の些細な不安や不満は伝わらなかったようだ。彼女は早々に話を切り上げると、帳簿を棚に戻してフロントを去っていった。忙しいのはお互い様で、いつまでも子供のように無意味な駄々をこねてばかりはいられないのが僕らの現実だった。
「……違うんだ」
事務室のロッカーから掃除用具を取り出しながら、僕はため息とともに声を落とした。僕と安西さんは喧嘩なんてしていないから、愛未ちゃんの幼い心配は的外れだ。
僕はきっと、哀しいのではなく戸惑っているのだ。
──あの夜。
彼の不可解な言動によって齎されて以降、胸の底にわだかまり続けている名前も知れない感情に。
「失礼いたします」
真山さん一家が宿泊していた部屋をくまなく掃除してから、安西さんの元へ行った。散歩に行っていると聞いたが、一応ノックを三回してから引き戸の取っ手に触れる。
「ぁれ? 開いてる?」
施錠されていない戸の前で、合鍵を握る手が宙に浮いた。
無用心と言いたい反面、僕ら従業員や他の客が決して悪意を持って侵入しないと信頼してくれているのだと思えば嬉しいことだ。戸を開けてみると八畳の和室にエアコンの冷気は漂っておらず、全開になっている正面の窓からは海風が吹き込んでいた。
「外界に向けて無防備なのは、さすがに」
まずいですよ、という独り言を最後まで言い切ることができなかったのは、壁際に寄せた座卓に伏せて眠る安西さんを発見したせいだ。
明るめの茶色い髪、広い背中。胡座を組んだ足は痺れないのだろうか。座卓に開かれたノートパソコンは電源が落とされ、暗く沈黙している。畳の上には国語辞典が開かれたままの姿で置かれ、脇には数冊のノートと赤や黒のペンが放置されている。まるで、直前まで何らかの作業をしていたかのような有様だ。
お客さんの前で、箒や掃除機を使うわけにはいかない。改めて出直すことに決め、僕は踵を返そうとした──が。
「わっ」
想像もしていなかったタイミングで背後からシャツの裾を掴まれ、引き止められた。
「何時だ」
低音が畳を這い、僕の耳へと上ってくる。
「じゅ、十時半です」
「寝ちまった……」
朝食を運んだときも下げに来たときも起きていたから、その後に寝てしまったということだろうか。座布団に座ったまま欠伸とともに天井に向かって大きく伸びをすると、安西さんは潤んだ瞳に尊大な笑みを浮かべて僕を見上げた。
「寝込みを襲いに来たか」
「そ、掃除をご依頼されましたよね」
落としかけた箒を握り締め、僕は引きつる口元を隠して問うた。
「あぁ。食後に少しだけ書いて、外へ出るつもりだったんだ。その間に、と」
「書いて?」
「いや、こっちの話だ」
自身の周囲を片付け始める安西さんを、僕は立ち尽くしたままで眺めた。
「僕は、哀しそうに見えますか」
不意に訊いてみたくなった。
「愛未ちゃんが、そう言っていたんです」
「アイミ? あぁ、モモちゃんか」
僅かに首を傾げた安西さんには、ぬいぐるみの名の方が印象に残っているようだ。過去に、モモちゃんという女性と付き合ったことでもあるのだろうか。
「哀しい出来事があったのか」
卓上で重ねたノートを整える音が、とんとん、と鳴る。
「思い当たることはありません」
買い出しと料理、掃除と接客の日々だ。お客さんの顔ぶれは変わっても僕自身にはこれといった変化はなく、それが哀しいか否かはまた別の問題だった。
「哀しそうな僕は嫌だと言われたんです。彼女が僕に何を見たのか判りますか」
「どんな話の流れだった」
「安西さんと喧嘩をしたのか、と」
「おまえは俺との喧嘩が哀しいのか」
安西さんは座卓に頬杖をつき、つまらなさそうに僕を見た。至極冷静に、答えなど自分で探せとでも言うように。
「そもそも、年に数日しか会わぬ小学生の言葉を気に病んでも仕方がないだろう。どれだけ真面目なんだ」
呆れているのだろうか。安西さんは部屋備え付けの小型冷蔵庫からペットボトルを取り出して一口だけ水を飲むと、今日も暑いな、と独り言のように言って、窓の外へと視線を流した。海を渡ってきた風に髪を晒して、無防備な横顔を僕に向けている。
そう。僕がこの人としたのは、喧嘩ではない。
夜の堤防に座って話し、そして──。
「……ぅ」
ボトルの水に濡れた唇を彼自身の赤い舌先がちらりと舐めたのを見た瞬間、僕の口中にその感触が蘇った。
「悧羽?」
振り向いた安西さんの双眸に、訝しげな色が浮かぶ。あのときの僕は、この目にどう映ったのだろう。そして、僕はこの人をどう捉えたらいいのか。
「……安西さん」
僕は畳を踏みしめたまま、目に力をこめて座卓の前の彼を見下ろした。
ある日ふらりと現れて、滞在期間を決めていないばかりか僕の仕事を手伝いたいなどと言う奇妙な男。理由は『面白そうだから?』。おまけに僕のお嫁さんが見たいと言った真山さんの無邪気な一言とは桁違いの、悪質なキス。
「あなた、一体何者なんですか」
本来、宿の従業員である僕がお客さんを上位から睨み据えるなど言語道断だ。が、立場上、民宿や家族を守るために必要なことは知っておかねばならないのもまた事実だった。
「俺?」
にぃ、と。
僕の視野の中央で、彼の口角が不気味に上がった。からかうように僕を斜めに見上げ、ゆっくりと少し厚みのある唇が開いてゆく。
「逃亡者?」
曖昧に語尾を上げる言い方が、小さな棘のように僕の心の片隅に食い込んだ。
「酷いごまかし方です」
──本当の鳴実悧羽はどこにいる?
本心を言えない僕を見透かしておいて、なんて卑怯な言い草だろう。
「それ、心底望んでやっていますか」
なぜだかとても腹が立ち、返す言葉には隠しきれない怒りが滲んだ。
「な、んだと」
案の定、安西さんの目つきが鋭さを増す。今度こそ喧嘩かと、不安が胸をよぎった──のも、束の間。
「え、わぁっ」
謝罪よりも先に、僕の口から溢れ出たのは悲鳴だ。座ったままの彼に手首を掴まれたと認識した途端に視野が回転し、僕は一瞬で畳に組み伏せられてしまっていた。
「何の真似ですか」
覆い被さってきた彼の手によって身体の両脇に腕を固定され、僕は身動きを封じられる格好になった。不測の事態に声が震える。前髪の隙間から覗く彼の双眸は怖ろしいほどに冷酷で、抵抗できぬ自分は大型肉食獣に捕らえられた小動物みたいだ。
「ふ」
笑みの形に歪んだ安西さんの唇から突如、奇妙な笑声が零れ始めた。
「くくく、はははっ、反撃か。やはりおまえは面白い」
「意味が判りません。どいてください」
自由になる両足で畳を蹴りながら、僕は入口の引き戸に目線を流した。この建物はどこもかしこも古く、客室はホテルの個室ほどには外界から隔絶されていない。木製の引き戸には大した厚みも防音性もなく、常に誰かが廊下を行き来し、大声を出せば気づいてもらえることは確実だ。が、僕にはなぜか、それができる自信が微塵もない。見下ろしてくる冷徹なまなざしに心を強く囚われ、身体は一切の機能を停止してしまったかのように固まっていた。
「期待したか」
「はい?」
「接吻、或いはそれ以上を」
耳元で発された、古めかしい単語は故意に選択されたものだろうか。意味を理解した瞬間、僕の思考は堤防での一件へと時間を遡った。大きくて少し硬い掌。重ねた唇はシャーベットのように冷たかった。
「ば、莫迦なことを言わないでくださいっ」
からかわれたのだと判った瞬間、あの夜に見た白い月が脳裏に浮かんだ。羞恥に跳ね上がった腕が束縛から逃れ、安西さんの胸を押し退ける。乱れそうになる呼吸をごまかすために手近に落ちていた雑巾を掴み、僕は意図的に窓の方へと顔を向けた。
「可能なら、お散歩に行っていただけると助かります。その間に清掃をしますので」
「……いや、掃除はもういい」
僕の抵抗をどう受け止めたのだろう。言い終えるや否や、安西さんの両手が素早く卓上からノートとペンを取り上げた。
「急ぐことではないな、どちらも」
右手に握った黒いメタリックな質感のシャープペンシルが、僕の顔と雑巾へ振られる。キスも、掃除も、という意味だろうか。
「忙しい時間帯に呼び出して悪かった。仕事に戻っていいぞ」
横柄な声はこちらへ向いているのに、鋭いまなざしは高速で何かを書きつける手元だけを見据えている。謝罪を口にしつつも本心では早くひとりになりたいと思っているらしい気配を感じ、僕は散らかった掃除道具を手早く集めて一礼し、退室した。そういう気持ちに、心当たりがあったからだ。
不意に天啓のように心中に現れる、ここではないどこかの風景。一刻も早く言葉に変換し、見失わぬうちに紙の上に縛り付けねばならないという高揚感と焦燥感。
きっと今、彼を捉えているのはそんな心持ちだ。それは、物語を書く人間特有の──。
「……え」
廊下に出て後ろ手に引き戸を閉した刹那、奇妙な感覚が僕の胸を支配した。
──物語を書く?
食堂へ駆け込み、お客さん向けの本棚から一冊の本を取り上げた。
「安西清忠、安西清臣」
前者は宿帳に記載された名だ。おそらくは本名なのだろう。そして、本の表紙に印刷されている後者が筆名なのだとしたら、彼の職業は──。
「嘘……」
間違いでなければ民宿鳴実には今、作家が滞在していることになる。しかも、ありがちな言い方をするならば、僕の憧れの作家だ。
先ほど彼は、書いてから散歩に行こうと思っていたと僕に語った。あれは、小説を書くという意味だったのではないだろうか。
「……ありえない……」
月夜のキスが胸中をよぎって──ゆっくりと消えていった。
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