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7 誰も彼も、どんなつもりで。
世の中にはお盆に社員全員が夏休みになる会社と、営業は続けたまま順番に休暇を取得するそれとがあり、僕らは日々入れ替わるお客さんに対応しながら夏を過ごした。
八月になっても安西さんはチェックアウトを言い出さず、貞夫さんと意気投合して釣りに出掛け、美味い蕎麦屋を見つけたと喜んで、すっかり町に溶け込んでいる。
一度だけ、自分が滞在している部屋に予約は入っていないのかと心配げに訊いてきたことがあったけれど、不意の来客のためにいつも開けてあるのだと答えたら安心して居ついてしまったようで、野良猫かと言いたくなった。
僕をからかうのは相変わらずだが、僕はまだ、彼の正体を言及できないままでいる。
思いがけない宿泊客が現れたのは、そんなある日の午後だった。
予約の名は清田真由子さん。
宿帳に記載された情報によると、僕と同年齢の銀行員。すらりとした細身の美人だ。職場の同僚との旅行だそうで、彼女の後ろにもうひとり、フロント業務も兼ねた食堂の入口で日傘を畳んでいる女性がいた。
「……え」
ピンクのレースの日傘をまとめ終え、眩しい屋外から食堂へと振り向いたその人が、小さく声を発しながら目を丸くした。
そう。僕は清田さんとは初対面だが、そちらの女性とは面識があったのだ。
「な、鳴実君? なんでここに」
「僕の自宅です。民宿鳴実へようこそ」
「なにその営業口調。家が民宿って初耳」
「……あー、もしもし、悧羽?」
午後三時の食堂の顔ぶれは母と祖父、貞夫さんと安西さん。つまり、いつものメンバーだ。説明を求める母の背後で、安西さんが面白がって麦茶のグラスを掲げている。声を出さぬまま唇の動きだけで呟いた言葉は、乾杯? 何もめでたくなんかない。
「こちら、北原千鶴さん。大学時代にゼミが一緒で、親しくさせてもらいました」
仕方がなく、簡素な紹介をした。
「どうぞ」
テーブルについたふたりに麦茶を出したら、案の定、怪訝な顔をされてしまった。都会の高級ホテルや老舗の温泉旅館ならばウェルカムドリンクはコーヒーか紅茶、ソフトドリンクから選べるのだろうけれど、ここでは麦茶だ。
「夏休みのバカンス先が鳴実君の実家だなんて、びっくりだなぁ」
白いサンダルの足をフローリングに投げ出す北原さん。旅行の段取りを清田さんに任せていたらここを予約されてしまった、といったところだろうか。驚いたのは僕も同じだ。
「自営業かぁ。鳴実君が就活に不熱心だったのは、こういう訳だったんだねぇ」
不熱心とは違うと言えたらよかった。しかし、他の学生たちのように懸命に活動しなかったのは事実だ。しかも家業は僕の意思とは無関係に昔からここにあり、僕は漫然と帰郷して宿の仕事をしているにすぎなかった。
「あたしは大変だったよ、就活」
何の飾りもないまっすぐなグラスを指で弾いて、北原さんが揺れる麦茶を軽く睨んだ。
「どうにか銀行に就職できたけど、ハイスペックな人たちに囲まれて毎日毎日勉強勉強。すっごく疲れて帰って寝るだけ。ドラマみたいな綺麗なレストランも行ったことがないし、彼氏もいない。鳴実君は自宅が仕事場で、気楽でいいねぇ」
「……っ」
ぴし、と食堂内の空気が凍った気がした。
祖父と貞夫さんは眉を顰め、母も一瞬表情を強張らせた。
皆が彼女と僕の次の行動を、息を潜めて待っているらしい気配が怖い。
自分で選んだ道だろうと言いかけて、けれど、僕にそれを口にする権利があるのかと考えたら言えなくなった。僕の職場にいるのは家族だ。毎日多忙で、ときに苛立ちをぶつけ合うことがあるとはいえ解決しようのない軋轢はなく、お茶を運んだだけでもお客さんは笑顔でお礼を言ってくれる、そんな恵まれた仕事をしている。
銀色のトレイを持つ手に力が入りすぎ、金属の表面を滑った指先が痛かった。
「ふざけんな」
一瞬、思考が勝手に口をついて出たのかと思った。が、呻くように呟いたのは僕ではない。沈んでゆく思考に、ごと、と重い音がぶつかってきた刹那、暗くなりかけていた視界が晴れた。
彼女らのグラスの横にいつの間に近づいたのか、安西さんが彼自身のジョッキを乱暴に置いていた。僕の目を覚まさせたのは、空になったそれの厚い底面がテーブルに当たった音だった。
初めてこの店へ現れたときと同じミリタリー風の格好をした彼の目が、上方から北原さんを射竦めている。青ざめた彼女が泣き出しそうに見えて、僕は咄嗟にトレイの上のポットを取ると、ジョッキに麦茶を注ぎ込んだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
「あぁ?」
「座って飲んでくださいね」
「……あぁ」
お客さん同士の争いごとは御免被ります、と視線に力を込めて安西さんを見上げた。
彼が僕のために怒ってくれたのは明らかだったが、それでも揉め事を回避するのがこちらの仕事だ。
「お茶がお済みでしたら、お部屋にご案内しましょうか。お荷物お持ちしますよ」
緊張から解き放たれた母が、女性客ふたりに声をかける。
ワイルドな美形から癒し系女将に目を移し、彼女たちが密かに安堵の息を落としたのを、僕は見逃さなかった。たぶん、安西さんもそうだろう。
「ありがとうございました。僕はこれから夕食の支度にかかりきりになるので、以降、お茶は手酌でお願いいたします」
「手酌……って、麦茶に使う言葉か」
中身が半分以上あるポットをテーブルへ下ろした僕に、安西さんが呆れ顔をする。
作家ならば些細な言葉の間違いが気になるのは当然かもしれないが、僕はまだ彼に真実を確かめてはいない。犯罪者を匿っている訳ではないのだから、客の素性を詮索しすぎてはいけない。
「待て、悧羽」
「はい、ご用ですか」
「執事か。ご主人様、と言ってみろ」
呼び止められたから回れ右をして背すじを伸ばしただけなのに、安西さんからはなぜか微妙な苦笑が返ってきた。
「……い、言いませんよ」
コンシェルジュの次は執事か。小説でしか見かけたことのない職種だ。逆らいつつも、僕の口から零れ落ちる声はみっともなく上擦った。
生まれてこの方、無限に呼ばれてきた自分の名。だが、相手が作家、安西清臣であると想像しただけで僕は全身が鼓膜になったみたいに落ち着かない気持ちに陥って、突然何倍もの聴力を得たかのように明瞭に聞こえ出した名をもっと呼んでほしいと懇願しそうになってしまう。
この理解不能な感情の意味するところを、僕は知らない。
解析できぬ感覚を少々気味悪く思いながら長身の彼を見上げていたら、不意に精悍な面差しからは笑みが消えた。
「顔色が悪いな。あんな身勝手な戯言に、おまえが傷つく必要はない」
「すみません。大丈夫です」
「大丈夫と表現したいのならば、それらしい表情ができるようになってからにしろ」
「あなたは」
どんなつもりで僕にキスをしたのかと、問いたくて問えなくて、声を飲み込んだ。
あの夜だって、僕は相当酷い顔色で自宅へ戻ってきたはずだ。何事もなかったように飄々としているこの人は、それを判っているのだろうか。
「俺が、何だ」
「失言でした。仕事に戻ります」
一礼し、踵を返した。
追ってくる言葉は、もうなかった。
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