8 眠れぬ夜の……

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8 眠れぬ夜の……

 深夜、寝室でファイルを開いた。  閉じられた原稿用紙の束が、扇風機の風にかさかさと鳴る。  東京で過ごした大学時代。  民宿の後継者であるはずの僕が学んでいたのは、経営でも経済でもなく文学だった。  文学部に通うことさえできたらそれをよい思い出として家業を継ごうと決意していると告げ、祖父と母に無理を言って自由にさせてもらった四年間は、僕の人生で唯一の我儘を通した時間であったと言っても過言ではない。  文章を、小説を書いて生きてみたいと思ったのは若気の至りだったのかもしれない。民宿の仕事と両立できればと望んだが、現実は想像ほど甘いものではなかった。今の生活のどこに書く時間があるのかと考えてみても、答えを見つける前に翌朝が来る。 「手詰まりなのは宿も、僕も……か」  暗い空に響く波の音が、今夜はとても近く聞こえた。  引き寄せられるように立ち上がり、廊下へ出た。自室を出て左を向けば、食堂はすぐそこだ。何気なくそちらへ流した目が、木製の引き戸の隙間から溢れる光を捉える。  僕は先程明日の支度を終え、全ての照明をオフにして母屋側へ戻ってきた。母が何かの用事で来ているのならばよいが、宿泊客の誰かが何かを探しているのだとしたら放ってはおけない。駐車スペースへ続く出入口のガラス戸はシャッターで閉ざしているから外部からの侵入者ではないだろうと思いつつ、音を立てぬよう注意して引き戸を細く開けると、まずは自分が片付けたとおりの整然とした厨房が目に入った。  そっとサンダルに足を乗せ、そちらへ出る。と、カウンターの向こうに、長身の人影が見えた。  長い足を組んで椅子に掛けたその人が開いているのは以前、貞夫(さだお)さんにナントカ賞作家と言われた僕の好きな作家の本だ。  安西(あんざい)さんが本当に安西清臣(きよおみ)なのだとしたら、彼は自著をどんな気持ちで読むのだろう。  手元に注がれる視線はあまりに真剣で、僕は何も言えぬまま、彫像のようなその姿を眺めた。町を散策し、釣りをして、少し日に焼けたのであろう肌。迷彩柄の服に似合う茶色い髪、彫りの深いはっきりとした顔立ち。 「……っ」  引き結ばれている唇が目に入った途端、Tシャツの下で自分の心臓が大きく跳ねたのが判った。  あのレモンシャーベットのように冷たい唇と、僕はあの夜……キスをした。いや、のだ。合意なんかじゃない。 「!」  動揺した足が勝手に後退しかけ、腰がシンクに当たった。  気配を察したのか、書籍に落ちていた彼の目が上がる。ゆっくりとこちらへ向く、琥珀の双眸。そのまなざしに、僕はいとも容易(たやす)く絡めとられた。 「どうした」  閉じられた本が、静かに卓上へ置かれる。 「咽喉が渇いたので。麦茶、安西さんもいかがですか」 「あぁ、貰う」  震えぬようにと努力をした声は、やはり端が掠れたけれど、彼の返事は短く、僕をからかおうとはしない。  棚から取ったグラスに麦茶を注ぎ、厨房を出た。歩み寄ってひとつを渡すと安西さんはそれを一気に飲み干して、息を吐き出した。 「食堂への夜間の立ち入りは禁止ですよ。入口に張り紙がしてあるでしょう?」  見なかったわけではないだろうと、僕は半開きにされたままの扉を指さした。その先の客室へ続く廊下は淡い電灯に照らされているだけで、誰の姿もない。 「悪い。ただ、ここに本があったと思い出して」 「眠れないのならばお貸ししますので、お部屋でどうぞ」 「おまえも眠れないのか」 「僕は湯上がりで自室に引き上げたところですが、こちらに灯りが見えたので一応確認に」  半分くらいは嘘ではないことを言って、僕も麦茶を飲み上げる。 「外部からの侵入ではないと思っていてもやはり少しは不安なので、こういうことはこれきりにしてくださると助かります」 「……ふ。湯上がりか。確かに少々」 「何を笑って……って、ちょ、何です?」  濡れた髪を一束(ひとたば)(すく)われ、僕の声は驚愕に裏返った。 「無防備すぎて、色々、してみたくなる」 「はっ?」  髪から離れた指に耳朶を擦られ、ぞくっと肌が粟立った。  風呂のせいではなく、熱くなる自分の体が理解できない。 「……冗談だ」  広い掌に後頭部を包まれ、僕は抵抗する間もなく彼の肩へと抱き寄せられた。 「仕事に対する悧羽(りう)の真摯さは、本当に眩しく……愛しいばかりだ」 「……ぁ、んぅ」  鼓膜に触れてくる吐息混じりの低い呟きは妙に切なげで、平素の彼らしくない。  そう思ったのが油断に繋がったのか、気づいたときには長い指に顎を持ち上げられ、僕は上を向かされてしまっていた。眼前にある安西さんの瞳はいつもの強さとは違う何かに揺れていて、一瞬、僕は逃げることを忘れて息を呑む。視野が暗くなると同時に唇が重なって、自分の歯に何かが当たったらしき音が、かつん、と小さく聞こえた気がした。 「お裾分け。寝る前に歯ぁ磨けよ」 「!」  言いざま彼は空いたグラスをふたつ持ち、厨房へと入ってゆく。僕の口中には甘すぎるメロンソーダの味が広がって、彼が舐めていたのであろう飴をキスと同時に口移しに渡されたのだと判った。  おやすみ、と肩越しに振り返る顔が、悪戯を成功させた子どもみたいに笑っていて憎々しい。卓上に残された本を投げつけてやろうかと思ったが出来ずに……抱き締めた。
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