9 他者の目を見ないということは

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9 他者の目を見ないということは

 ごめんね、と小さく言って頭を下げた北原(きたはら)さんの髪を、僕はただぼんやりと眺めた。  翌朝、チェックアウトの手続きを終えた彼女が昨日とは別人のように素直に言うから、今度は何だと身構えたが、それはどうやら例の発言に対する謝罪らしかった。 「あたし、成績も見た目も普通で特別な能力もないから本当に就活が大変で、ときどき面接で意地悪な質問をされて、初対面のおじさんにどうしてそんなことを言われるのか判らなくて泣きながら帰ったこともあった。今も同僚と比べられて、本当は劣等感でいっぱいなの。だから家族で仲良く働いている鳴実(なるみ)君が羨ましくて、八つ当たりしちゃった。ごめんなさい」 「……あぁ、うん」  銀行員になれたのだから凄いよ、と言うべきかと迷い、僕は頷くだけに(とど)めた。  彼女の戦いはこれからも続くのだろう。家族に守られている僕は彼女の葛藤を一切知らず、どんな慰めも励ましも無意味としか思えない。 「ごはん、美味しかった。お風呂もお蒲団も気持ちよかった。鳴実君の仕事は素敵だね」  はにかみつつ母と祖父にも一礼すると、彼女は同僚と連れ立って真夏の光が溢れる屋外へと出ていった。 「今日は暑いから、熱中症に気をつけて。悧羽(りう)のご学友に、特別サービスのお土産です」  母が笑顔で差し出したのは、スポーツドリンクの入ったビニール袋だ。そんなサービスを僕は初めて目にしたが、彼女たちが嬉しそうに母へ礼を言ったから黙っておいた。 「元気でね、鳴実君」 「ありがとうございました。お気をつけて」  食堂の外で焼けたアスファルトに立ち、僕と母は丁寧に腰を折る。バス停への道を歩きながらこちらへ手を振る北原さんの手首で、腕時計がきらりと輝いた。 「いいのか」  短く耳打ちしてきたのは、安西(あんざい)さんだ。 「来年もお待ちしておりますと言って、ヨリを戻さないのか」 「誤解です。僕らは同じ作家が好きで、その作品に関して話が合っただけの関係でした。それもほんの短期間のことです」 「……作家」  何気ない説明に安西さんが、ふと訝しげな表情をしたから、これは好機なのかもしれないと僕も気がついた。彼の素性を問う、またとない機会だ。僕は意を決し、口を開いた。 「安西清臣(あんざいきよおみ)という作家です。ご存じですか」 「……あぁ」  微妙な間をおいて、吐息混じりの声が返った。安西さんは真剣とも困惑とも取れるような複雑な顔をして、僕に向けていた視線を蒼穹へと流していく。 「よく知っている。昨秋辺りから仕事に行き詰まり始め、現在は海辺の民宿へ逃げ込んで、女将と若造に甘やかされている卑怯な男さ」 「……!」  ──逃亡者?  そう言ったときの彼の顔が、不意に目の前をよぎった気がした。僕の反応を面白がるようでいて、実は疲労と自嘲が色濃く滲んだまなざしをしていたのだと、今になって気づく。  酷く疲れてこの町へ辿り着いたであろう彼に、あのときの僕は何と返した? 「今日は買い出し当番なので」  失礼します、と呟き、民宿側の事務室へ足を向けた。軽トラックの鍵を掴み、食堂の冷蔵庫に貼られた買い物メモを引っ剥がす。 いつものテーブルに貞夫(さだお)さんが来て祖父と何事かを話し始めたから、母に麦茶を出すように頼んで外へ出た。  安西さんの言動に、僕が日々混乱させられているのは事実だ。が、自分だけが傷つけられたわけではなく、どちらかといえば気遣われたことの方が多いような気もする。  なのに、僕は。  ──それ、心底望んでやっていますか。  安西清臣は一読者でしかない僕にさえ相当なペースで書いている作家に見えた。けれど、行き詰まっているという言葉を裏付けるかのように昨年の秋以降、新刊は出ていない。数度の電話の相手は担当編集者かもしれないと、今なら簡単に想像がついた。  ──心底望んで……。  彼が目つきを鋭くしたのは僕への威嚇ではなく、不意打ちの痛みを堪えるためだったとしたら。 「……あぁ」  アクセルを踏むと同時に車内を湿らせたのは、後悔混じりの深い溜め息だ。  僕は就活の苦労を知らないし、銀行員の忙しさは外側からは見えない。作家の懊悩や辛苦を想像したことも皆無だ。  他者の目を見ないということは、こういうことか。ほんの一時(いっとき)己を守れても、その裏で誰かを深く傷つけている。  目の奥が痛くなったが、今の僕には泣くことさえ許されない。自分にはその資格がなく、何より運転中に涙で視界を潤ませては危険だ。無事に帰ってお客を誠心誠意もてなすことが、自分にできる唯一の罪滅ぼしだろう。  と、ぐるぐる回る思考に混乱しながら、会計を終えて自宅へ戻った。食材を冷蔵庫や棚に収納したら、すぐに昼食の準備に取り掛からねばならない。 「ぅわっ」  足元の小石に躓いたのは、駐車スペースに軽トラを停めて扉を開け、地面に足を下ろした瞬間だ。 「悧羽!」 「……あなた、どこにいたんですか」 「何を言っている」  屋外で犬のように待っていたのかと訊きたくなるようなタイミングで現れた安西さんが、屈強な腕で僕を支えていた。 「ちょっと躓いただけ」  です、と言い切る前に、鋭い舌打ちが聞こえた。これだから完璧主義者は、と言われた気がするのは、僕の勝手な被害妄想だ。僕のことなど助けてくれなくていい、そんな暇があるのなら、部屋へ戻って作品に向かってくれと言いたくなった。この人にはその才能があり、待っている読者が大勢いる。潰れかけた民宿の息子の僕なんかより、人々に望まれた存在に違いないのだ。 「お茶はいかがですか。食堂へどうぞ」  今は彼の顔を見る気になれず、僕は両手に荷物を抱えて歩き出した。  呆れたような吐息をひとつ、背中で聞いた。
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