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10 翌朝
アラームよりも早く目が覚めた。
食堂に入って窓を全開にし、カウンター下の本棚から引き出したのは、貞夫さんに「ナントカ賞作家」と言われた作家の作品だ。
『安西清臣の小説が好き』と『安西清忠本人が好き』は、似ているようで、全く違う。
口移しで渡された飴は甘さを感じると同時に奥歯で噛み砕いてしまい、しかも反射的に飲み込んでしまっていた。
他人の唾液にまみれた飴だというのに。
「……最悪」
卓上に置いた彼の本の隣に、自室から持ってきたファイルを置いて見下ろす。
自作の物語が全国の書店に並んだらどんなに良いだろうという憧れと、無理に決まっているという諦めが心の内側を二色に染めている。
窓から吹き込む早朝の風に、くたびれた原稿用紙が、はらり、と鳴った。
「だって、僕だよ?」
特別な何かを持たない、どこにでもいる平凡な人間。寂れた民宿のひとり息子で、取り得と言えば若さだけ。
家業を継がねば即座に、継いでもそう遠くはない未来に、僕は民宿鳴実を潰してしまうのだろうとしか思えない。
「何が、僕だよ、だ?」
「わぁっ」
突如、肩のすぐ後ろから低い問いが投げかけられた。聞き慣れた声は、安西さんのものだ。
「営業時間外の食堂への立ち入りはご遠慮下さいと、昨夜も言ったはずですが」
「おまえがいれば、問題はないだろう」
「……屁理屈」
うなじに息がかかりそうな距離から言われ、僕は渋面を作って振り返る。
「そんなに警戒しなくても、飴はもう無い。貞夫さんが気まぐれにひとつだけくれたものだからな」
「要りませんよ。子どもじゃあるまいし」
「子どもだと思っていたなら、あんな食べさせ方はしねぇぞ?」
意味深な言葉と細められた双眸の色っぽさが、僕の心に苛立ちと困惑を湧き上がらせる。この人は、僕をどう思い、どうしたいのだろう。どんな返事を待っている?
僕にとっての安西さんは宿泊客のひとりに過ぎない――と言うには、親しくなりすぎてしまっただろうか。
「悧羽」
「!」
どんな言葉も巧みに操れるはずの人なのに、僕へ注がれるものはいつでも真摯なまなざしばかりだ。
長い人差し指に顎を持ち上げられ、僕は硬直する。
「すみません。そろそろ朝の掃除の時間なので」
まっすぐで強くて嘘を許さない瞳が怖くて、臆病な僕は仕事を言い訳にする。
背を向けたテーブルに、肝心な物を置き去りにしていることさえ気づかずに。
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