10 翌朝

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 ごめんね、と言って頭を下げた北原さんの髪を、僕はただぼんやりと眺めた。  朝食後にチェックアウトの手続きを終えた彼女が昨日とは別人のように素直に素直に言うから、今度は何だと身構えたが、それはどうやらチェックイン時の発言に対する謝罪らしかった。 「あたし、成績も見た目も普通で特別な能力もないから本当に就活が大変で、ときどき面接で、意地悪な質問をされて、初対面のおじさんにどうしてそんなことを言われるのか判らなくて泣きながら帰ったこともあった。今も同僚と比べられて、劣等感でいっぱいなの。だから家族で仲良く働いている鳴実君が羨ましくて、八つ当たりしちゃった。ごめんなさい」 「……あぁ、うん」  銀行員になれたのだからすごいよ、と言うべきか否かと迷い、僕は頷くだけにとどめた。彼女の戦いは、きっとこれからも続くのだろう。家族に守られている僕は彼女の苦労を一切知らず、どんな励ましも慰めも無意味としか思えない。 「ごはんは美味しかったし、お風呂もお蒲団も気持ちよかった。鳴実君の仕事は素敵だね」  はにかみつつ、母と祖父にも一礼すると、彼女は友人と連れ立って真夏の光が溢れる屋外へと出ていった。 「今日は暑くなるから熱中症に気をつけて。悧羽のご学友に特別サービスのお土産です」  母が差し出したのは、スポーツドリンクの入ったビニール袋だ。そんなサービスを僕は初めて目にしたが、彼女たちが嬉しそうに母へ礼を言う姿に言葉を飲み込んだ。 「元気でね、鳴実君」 「ありがとうございました。お気をつけて」  食堂の外で焼けたアスファルトに立ち、僕と母は丁寧に腰を折る。バス停への道を歩きながらこちらに手を振る北原さんの手首で、腕時計がきらりと光った。 「いいのか」  短く耳打ちしてきたのは、安西さんだ。 「来年もお待ちしておりますと言って、ヨリを戻さないのか」 「誤解です。僕らは同じ作家が好きで、その作品に関して話が合っただけの関係でした。それもほんの短期間のことです」 「……作家」  何げない説明に安西さんがふと、訝しげな表情を浮かべたから、これは好機なのかもしれないと、僕も気がついた。彼の素性を問う、またとない機会だ。僕は意を決し、口を開いた。 「安西清臣という作家です。ご存知ですか」 「……あぁ」  微妙な間をおいて、吐息混じりの声が返った。安西さんは真剣とも困惑とも取れるような複雑な顔をして、僕に向けていた視線を蒼穹へと流していく。 「よく知っている。昨秋辺りから仕事に行き詰まり始め、現在は海辺の民宿へ逃げ込んで、女将と若造に甘やかされている卑怯な男さ」 「……!」  ――逃亡者?  そう言ったときの彼の顔が突如、目の前へ蘇ってきた。僕の反応を面白がるようでいて、実は疲労と自嘲が色濃く滲んだまなざしをしていたのだと、今になって気づく。酷く疲れてこの町へ辿り着いたのであろう彼に、あのときの僕は何と返した? 「今日は買い出し当番なので」  失礼します、と呟き、民宿側の事務室へ足を向けた。軽トラックの鍵を掴み、食堂の冷蔵庫に貼られた買い物メモを引っ剥がす。  いつものテーブルに貞夫さんが来て祖父と何事かを話し始めたから、母に麦茶を出すように頼んで外へ出た。  安西さんの言動に、僕が日々混乱させられているのは事実だ。しかし、自分だけが傷つけられたわけではなく、どちらかといえば気遣われたことも多いような気もする。  それなのに、僕は。  ――それ、心底望んでやっていますか。  安西清臣は、一読者でしかない僕にさえ相当なペースで書いている作家に見えた。が、行き詰まっているという言葉を裏付けるかのように昨年の夏以降、新刊は出ていない。数度の電話の相手は担当編集かもしれないと、今なら想像がついた。  ――心底望んで……。  彼が目つきを鋭くしたのは僕への威嚇ではなく、不意打ちの痛みを堪えるためだったとしたら。 「……あぁ」  アクセルを踏むと同時に車内を湿らせたのは、後悔混じりの深い溜め息だ。  僕は就活の苦労を知らないし、銀行員の忙しさは外側からは見えない。作家の懊悩や辛苦を想像したことも皆無だ。  他者の目を見ないというのは、こういうことか。ほんの一時、己を守れても、その裏で誰かを深く傷つけている。  目の奧が痛くなったが、泣くことさえできない。僕にはその資格がなく、何より運転中に涙で視界を潤ませては危険だ。無事に帰って誠心誠意お客をもてなすことが、自分にできる唯一の罪滅ぼしだろう。  と、ぐるぐる回る思考に混乱しながら会計を終え、自宅へ戻った。食材を冷蔵庫や棚に収納し終えたら、すぐに昼食の準備に取り掛からねばならない。 「ぅわっ」  地面の段差に躓いたのは、駐車スペースに車を停めて扉を開け、アスファルトに足を下ろした瞬間だ。 「悧羽っ」  転ぶ! と思って痛みを覚悟した直後、僕の身体は屈強な腕に受け止められた。 「……あなた、どこにいたんです?」 「何を言っている」  屋外で犬のように待っていたのかと訊きたくなるタイミングで現れた安西さんが、呆れた声を聞かせながら僕を立たせる。 「……おまえは」 「え?」 「書く側の人間だったのか」 「!」  感情の籠もらぬ問いに、刹那、鼓動が途絶えるような恐怖を感じ――そして、思い出した。  早朝の食堂。  テーブルに並べていたのは安西清臣の書籍と……書きかけの、自作の小説、だ。
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