11 昼の厨房

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11 昼の厨房

「僕、は…」  書く側、という表現に驚いて舌が縺れた。  そう言われるべきは彼の方で、僕はまだそこに到達出来ていない、「書いて生きる人に憧れているだけ」の凡人だった。 「…いや、いい。仕事中に悪かった。行け」  僕の困惑を察したように、支えていた手を離し、安西さんが一歩、遠ざかる。 「あなたは」  離れていく彼の体温を追うみたいに、僕の唇は勝手に動いた。 「あなたが、安西忠臣」 「……さぁな」  曖昧な返事を残し、宿の方へと歩き出す彼の背は広い。口元に一瞬浮かんだ笑みは、自嘲だろうか。  一泊だけで帰っていく初対面のお客なら、僕は精一杯の持てなしで感謝を表しつつも、心まで引っ張られはしない。けれど、安西さんは僕や母の想像よりも長く民宿鳴実に滞在し、毎日顔を合わせ、言葉を交わし――すっかり情が湧いてしまった感がある。  おまけにその正体は僕の好きな作家なのだから厄介なこと、この上なし、だ。 「あぁもう! 仕事仕事」  大きめに言って荷台に積んだ荷物を取り上げながら、例のファイルの所在を彼に聞き忘れたと気がついた。  読んだのだとしたら、どんな感想を抱いただろう。いや、聞きたくない。大学時代に書いた拙い文章は、読み返すたびに自身の幼さを突き付けられるようで恥ずかしい。今ならもう少し上手く書けるかもしれないと思っていたが、安西清臣の目にはどちらも大差なく映ってしまうだろう。 「お帰り、悧羽。どしたの、赤い顔をして」 「えっ、あ、外っ、凄く暑くて」  冷房の効いた食堂で母がそんなふうに言うから、僕は「ただいま」も飛ばして言い訳に苦心する。 「最近、安西君と妙に仲良しよね」 「なっ」 「昨夜遅くにふたりで何か話していたみたいだし?」  大きな目と意味深な言葉を向けられ、心臓がバクッと跳ね上がって痛かった。  営業時間外の食堂で自著を捲っていた安西さんの姿が脳裏によみがえる。静寂の底に佇んでいた、がっしりとした体躯の大人の男。書籍に注がれた眼差しは僅かな矛盾も嘘も許さないと言うかのように、鋭利で冷徹。怖いくらいに真剣だった。 「安西さんは都会の人だから、僕みたいな田舎者が珍しいだけだよ」  仕事を手伝わせろとか、本当の鳴実悧羽はどこにいるとか、僕を困らせる事ばかり言う。けれど、それらは自分が常々考えている事で…。 「民宿は、あたしの両親とあたしが選んで始めた事よ」 「…え?」  こちらを見ずに話す母の手に、エコバッグを優しく取り上げられて僕は惑った。与えられた言葉の意味を、即座に理解しない僕を彼女は叱らない。 「悧羽が背負わなくていいのよ」 「母さんは、それでもいいの?」  僕が民宿を継がなくても。畳んでも。  と、はっきりと口にするのは躊躇われ、言葉を濁す。それでも通じてしまうのが親子という間柄なのだと教えるように、静かな吐息がふたりの間に落とされた。 「ひとり息子が健康で、したい事をして毎日笑っていてくれたら、あたしは満足よ」 「……母さん」  それはとても有難いのだけれど。  彼女の背後に設置された壁掛け時計が、僕に現実を押しつける。 「ありがとう。だけど、今はお昼の支度を始めなきゃ」 「そうね。今のはあたしの独り言だから、悧羽は聞いていてもいなくてもいいわ。……あ。早速、空腹のお客さんのお出ましよ」 「ヒトを冬眠明けの熊みたいに……」  瞳に親愛の情を浮かび上がらせた母へ答えるのは、宿と繫がる食堂の入口へ現れた安西さんだ。大きな身体は熊と言えない事もないと思いつつ、僕は厨房へとつま先を動かした。 「カツカレーとレモンシャーベットと、水」 「氷増量ですね」  すれ違いざまに見上げた彼と目が合って、大きな掌をぽん、と頭に載せられた。  この手の温度にも、すっかり慣れたと思ったら、全身が熱くなる錯覚がした。  一方的にされたとはいえ、この人とキスをしたのだと不意に実感してしまい、沸騰する頭を冷凍庫へと突っ込みたくなって、僕は暫し厨房の片隅に座り込んだ。
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