12 僕のファイルと気持ちの行方

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12 僕のファイルと気持ちの行方

 ……僕の、書きかけの作品を綴じたファイルをご存じですよね?  という単純な問いかけを口にできぬまま、気づけば八月も下旬に入ってしまっていた。  短い夏休みをあっという間に終えた大人達は暑さに辟易しながら出勤し、元気に駆けてゆくのは早朝のラジオ体操へ向かう子どもらだけだ。  僕と安西さんも、相変わらずの日々を送っている。 「犬でもいたらよかったな……」  一日の仕事を終え、ふらりと家を出て路上の自販機で麦茶を買いながら、僕はふと夜空を見上げた。 「大きな、白いもふもふ……」  幼少期、そんな犬に憧れたことがあったと懐かしく思いながら、夜道を行く。  海水浴客目当ての土産物屋は既にシャッターを下ろしていて、家々からは暖かな光がこぼれてくるばかりだ。 「大きな、白いもふもふ……」  今は僕も大人だから、犬の世話は問題なくできる。世間には猫とのふれあいをサービスの一環としている宿泊施設もあるのだから、ウチに犬がいても悪くはないだろう。  欲しかったペットが家にやってくる、成長過程を民宿のHPに載せ、犬好きのお客が集まる……そんな想像は楽しく、足取り軽く僕は海辺へと歩いていく。 「ねぇ」  突然右側から誰かの声が聞こえたけれど、自分が呼ばれたのだと気づけぬ程に浮かれていた。 「ねぇ、お兄さん。この辺に女の子がいる店、知らない?」 「は、い?」  我にかえった僕の目に、数人の若い男達が映った。見かけない顔ぶれとアロハシャツに短パンという装いで、一目で観光客だと判る。全室オーシャンビューを売りにしている、海水浴場近くのホテルに滞在している奴らかもしれない。 「こんな田舎に、そんなのないです」  余所者を楽しませるキャバクラどころか、地元のオッサンを癒やす居酒屋さえないのだ。そんなことは付近を少し歩けば判るはずで――。 「そうなんだぁ? アレ、よく見るとお兄さん、可愛い顔してんね。よかったらボク達と遊ばない?」 「っ!」  全然よくないし遊ばない、と答えるよりも早く、ひとりの男に腕を掴まれた。 「女の子がいないんじゃ、仕方がないよね」 「ボクら、男女ともイケるから」 「優しーくするし?」  街路灯に浮かび上がる相手は五人。皆、一様に目をギラつかせて僕を獲物のように眺めている。  目的はカネか、それとも……。 「離して下さい」 「ん。もうちょっとあっちに行ったらね」 「や、だっ……」  強く腕を引かれ、背を押されて、握っていた麦茶のボトルが足下に落ちた。真夏の夜だというのに冷たい汗が背中を転がっていき、助けを求めたいのに声は咽喉の奥で固まっている。 「ぁん、ざぃ、さん」  宿の駐車スペースで躓いた僕を瞬時に抱き止めたあの腕が、今ここにあったらいいのに。あの人が今、ここに……。 「ぅわっ」 「痛ぇっ」 「何だテメェはっ」  突如、無様な悲鳴を上げて男達の乱暴な手が僕から離れた。  どこから現れたのか、安西さんが僕から引き離した男の手をゴミのように無表情で放り捨てている。  ふわ、と身体が重力から解き放たれるような感覚がして、気づいた時にはもう、僕は安西さんの片腕に難なく抱え上げられていた。 「俺のモノに、気安く触るんじゃねぇ」 「!」  口調は平坦なのに、声音は地を這うが如く重く冷酷だ。その怖ろしさは、北原さんを威嚇した時の比ではない。片腕に抱かれた僕は間近でその真剣な横顔を見つめ、さらに信じられない言葉に息を飲む。  野生の獣を彷彿とさせられたのか雄としての風格の違いを自覚させられたのか、男達は目配せをし合ってすごすごと後ずさり、あっという間に闇の底へと退散していった。  暫し、ふたりの間に沈黙が訪れる。下ろしてほしいと言うべきか否かと迷う僕の内心を知ってか知らずか、安西さんが特大の溜め息をつきながら、空いている方の手で自身の前髪をかき混ぜた。 「……帰るか」 「って、え、このまま!?」 「……」  返事はない。  広めの歩幅で歩き出され、僕は地上に下りる事を諦め、彼の首に腕を回す。  彼の体温に触れて、本当はとても怖かったのだと気がついた。 「……ありがとう、ございました」  訊きたい事は多々あるけれど、今はそれだけを言うので精一杯だった。
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