13 或る夜……

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13 或る夜……

 食堂の引き戸を開けて中へ入るなり、厨房から出てきた母と目が合った。 「海沿いの道で、タチの悪い観光客に絡まれていたから拾ってきた」  未だに彼の片腕に座るように乗っていた僕を下ろしながら安西さんがした説明は、非常に雑だ。 「え!? ふたりとも、怪我はなかった?」 「あぁ」 「大丈夫。母さんは出かけるところ?」 「そう。婦人会の会合に。本当に何ともない? 何かあったら電話してね」  僕と安西さんを交互に見る母は、珍しく動揺した顔だ。  客である安西さんにもしもの事があったら一大事だけれど、幸いふたりとも無傷だった。 「早く行かないと遅れるよ」 「安西君、悧羽を助けてくれてありがとう。お留守番、お願いね」 「承知した」  おろおろと携帯端末を握りしめ、母は軽く片手を上げる安西さんと僕を振り返りながら、食堂の外へと出て行った。 「大袈裟だな。婦人会の会合なんて二時間程度で終わるのに」  車道へ合流してゆく軽トラックを見送って、僕は二人分の麦茶を出しに厨房へ入る。 「愛されている証左だ。感謝しろ」  淡々と呟く安西さんの前にグラスを置くと、彼は一息にそれを飲み干してしまった。 「じいさんは老人会の温泉旅行、女将さんは婦人会、客はひと組もなし。静かな夜だ」 「幸か不幸か、ですが」  民宿に宿泊客ゼロの日があるのはよくないが、母を会合にかり出されては僕だけでは全ての業務を行えない。今夜だけは幸いと思っておくしかないだろう。 「先程はありがとうございました。お風呂、どうぞ。僕も自宅側に帰ります」 「一緒に入るか」 「はい!? ……え?」  最悪な冗談に眉をひそめて振り返ると、安西さんがカウンター下の本棚から一冊のファイルを取り出す様子が目に入った。  僕の、小説のファイルだ。 「読みました……よね?」  書きかけの作品を、という部分を声にするのは躊躇われた。目指す場所に既に到達している本物の作家に拙い文章を読まれたなんて、穴があったら入りたいとは、こういう事態をいうに違いない と思わされる。 「さぁ、な」  答えは曖昧だった。  すらりと立ち上がり、安西さんは食堂の入口をシャッターで閉ざすと、ふたつのグラスをシンクで洗った。 「よ、っと」 「ちょっ、わぁっ」  自分の周囲だけが無重力になった錯覚が起こったと思ったときには、僕は安西さんの肩へと担がれてしまっていた。 「米じゃないんですから」 「姫抱きがいいか」 「そういうことではなくっ」  かち、と食堂の照明を消すスイッチの音が普段よりもずっと下方で鳴る。  彼は厨房の奥の扉から自宅側に入り、僕の自室を尋ねた。  1枚の扉を示すと寸分の迷いも見せずに中へ踏み込み、月明かりと街路灯の淡い光だけを頼りに位置を確認して僕をベッドへ下ろす。続いてその腕が向かったのは、部屋の真ん中に下がった照明器具の紐だった。 「だっ、駄目ですっ」  制止は間に合わなかった。灯りを点けた六畳の室内は、一秒で全てを見回すことができてしまう。 「俺の本ばかり、だな」 「ばかりでもないですが」  驚きと呆れを半々に含んだ声に、僕は溜め息を返す。他の作家の本を押し入れに収納できるタイプの棚へ収め、安西さんの本だけをすぐに取り出せる床置きの書棚へ並べている状況は、そう言われも仕方がない。 「道に迷ったときに開くんです。あなたの小説に、生き方を教わるために」 「地図扱いか。俺だって迷うことはあるぞ」 「すみません」 「悧羽」 「……え」  不意に、大きな掌に両肩を掴まれた。  僕はベッドに座ったままで、見下ろしてくる安西さんの真率な双眸を見つめ返す。 「俺が安西清臣であることも、民宿鳴実へ来たことも、そしておまえが作家志望であることも全て偶然だ。おまえはまだ若く、この先どんな物語を紡ぐことも可能だろう。柔軟な感性を武器に、全国にごまんといる作家を志す奴らと戦うんだ」 「……――」  自分の担当に読ませてやるとか、書き方を教えてやるなどという発言を期待した訳ではなかった。 けれど、その真摯な言葉は、人生は砂糖菓子のように甘くはないと僕に再認識させるには十分過ぎる力強さを有していて、彼もまた、戦っている人なのだという理解が僕の心の底で二度とは抜けぬ楔になった。 「五万人斬りか……大変そうだな」 「何だと?」 「いえ」  見当違いのことを言った自覚はある。僕は頭を左右に振り、改めて彼を見上げた。 「あなたが、安西清臣」 「あぁ」 「僕のカレーを食べて、僕を米俵のように担ぎ上げたあなたが、安西清臣」 「あぁ、そうだ」 「あなたが、安西……」 「何度言えば気が済むんだ」  町が穏やかに夜を迎え入れようとしている時刻。海を渡ってきた風が密やかに室内へと滑り込み、僕らを取り囲み始めていた。 「ひとつだけ、偶然にしないでほしいことがあります」 「何だ」 「どうやら僕は」  安西さんの後頭部にそっと両腕を伸ばし、茶色い髪に指を差し込んで目を合わせる。 「あなたのことが好きらしいので」 「らしい?」  正面に位置する髪と同じ色の瞳が怪訝そうに瞬きをして、一秒にも満たぬ短時間だけ、絡み合うふたりの視線を断ち切った。 「荷物のように抱え上げられるのは不本意ですが、それでもあなたの体温に僕はとても安心し、ずっと触れていたくなります」  今も、決して柔らかくはない彼の髪の感触にさえ、苦しいほどに胸が高鳴っている。  答えてくれない彼の唇を辿り出す自分の指を、僕はもう意志の力で制御できない。 「あなたはどうして、僕にキスをくれたのですか。田舎者の反応を面白がっただけですか」 「……黙って聞いていれば」  奥歯で噛み潰すような呟きが、無遠慮に鼓膜を通過して脳に達した。頑強な指にあっさりと右手を捕獲され、手首に走った一瞬の痛みに僕は束の間、片目を閉じる。半分になった視野の真ん中で唇を愉悦に歪ませ、悠然と笑むのは、僕を畳へ組み伏せたときと同じ、大型肉食獣の目をした安西さんだった。 「随分とかわいいことを言ってくれるじゃないか。なぁ、悧羽?」  頬を包みに来る硬い掌は、氷を詰め込んだジョッキのように冷ややかだ。 「明日からは温かいお茶を」  出しましょうか、と言いかけた声が、不意に凍った。この人は民宿の宿泊客だ。永遠に僕との明日を重ねていける相手ではない。  気づいた瞬間、僕は怖ろしいほどの寒気に襲われ、タオルケットを手繰り寄せて身体に巻きつけた。 「悧羽?」 「ま、間違えました。好きではないです」 「忙しいな。どっちなんだ」 「だって……っ」  あなたはいつか、帰ってしまうから。  声にしたらそれが即座に現実となってしまいそうで、髪を梳かれながら僕は泣いた。 「呆れますか。でも、自分にはここで待つことしかできない。明日にでもあなたを見送って、あるかどうかも判らない再会に縋る以外に何もできない」 「ならば、今だけでも俺に全てを委ねろ」  命令口調と、裏腹の優しい声音。僕をベッドへ横たえるのは、武骨な両手だ。  初めは触れ合わせるだけだったキスがやがて貪るように深くなり、抵抗する間もなく歯列を割った舌が僕のそれを絡め取る。  一方的なキスをされたあの夜のような嫌悪が湧いてこないのは、自分の気持ちが変化したからだろうか。不思議に思いながらそっと目を開け、僕は安西さんの精悍な顔を仰ぎ見た。 「あのときおまえに口づけたのは」  唾液の糸を引いたまま、安西さんの舌先が僕の頬を滑って耳元へと移ってゆく。耳朶を甘噛みされた瞬間、意識するよりも早く肩が震えた。 「おまえがかわいかったからだと言ったら信じるか。生き方に迷いながらも必死に強がって、俺に抵抗する姿に興味をそそられ」  見下ろしてくる整った顔がふわりと相好を崩し、同時に甘い息が落とされた。 「一瞬で惚れてしまった」 「嘘」  思わず片手で口を覆った。  あの日の僕は皆が自分を心配してくれていることさえ素直に受け入れられずに、苛立ちを酒でごまかそうとしていたのだ。心中は悩みと自己嫌悪で埋め尽くされ、惚れてもらえるような立派な行いなど何ひとつしてはいなかった。 「そういう反応は予想していたが、事実だ」 「……嘘」 「二度も言うな」  耳元でかすかに発されたのは、笑声だろうか。爽涼な瞳に悪戯を楽しむような色を煌めかせながら、安西さんは飽きもせずに右手で僕の髪をかき混ぜ続ける。 「荒削りだが、読み手の気持ちを引きつける魅力は確かにある。磨けば光るだろう」 「何の話ですか」 「……小説」  おまえの、と言う彼の目線の流れつく先、文机に置かれいるのは例のファイルだ。これもまた、米俵状態の僕と一緒に彼の手で運ばれてきたのだと気づいた刹那、血液が熱湯になったかと思うほど に身体が熱くなった。 「や、やっぱり読んだんですねっ」 「読んでほしくて置いていったんだろ?」 「そんなわけないでしょうっ」  試行錯誤しながら必死に書いてきたものを勝手に、と怒鳴りたい気持ちになったのは羞恥半分、怒り半分……けれど。  ――小説。  書きかけの未熟なそれを尊重してくれる一言に、僕の胸はふわりと温まった。 「誰の作品だろうと、小説を最も真剣に読むのは、やはり小説家だ」 「判りました。戦います」  あなたが言ったんだ。  本心を見せろ、甘えろ、と。  ずっと自分に禁じてきたそれを許してもらえるのならば、僕はどこまでも強欲な人間になりたい。  仕事も夢も、諦めずにいられるように。  僕は今、ようやく自分の気持ちに気がついた。安西さんから与えられる不安のようなものの正体は、この人と同じ場所に立ちたい、認められたいという願望だったのだ。 「よし、約束だ」  幼子にするように僕の頭に掌を置いて、憧れの作家が淡く笑む。霧の中を歩くみたいに僕は視線を彷徨わせ、ようよう彼を視野の中心に捉えた。 「あなたは、いつまでここに……」 「もう黙れ」 「……んぅ」  低く呟く唇に、喉元を辿られる感触がくすぐったい。七月のあの日、カレーに濡れたこの唇が綻んだ瞬間、僕は恋に落ちてしまったのだと今なら判る。  見下ろしてくる鋭利なまなざしに、心臓が高く跳ねた。本心では少し怖い。でも、この人はいつか必ず、ここから去ってしまうのだ。  行動せずに後悔するよりも、その熱を、質感を、この身体に刻み込んでほしかった。 「無茶……いや、無謀? 不思議な奴だ」 「無茶も無謀も承知の上です。僕だって、あなたに触りたい」 「臆病なのか強気なのか」 「欲張りです」 「ははっ、そっちか」 「安西さんが好きです」 「今度は間違えたとは言わせないぞ」 「い、言いませ、ん……ぁっ」 「上等」  水音を伴う執拗な口づけに僕の思考は痺れ始め、霞みそうな意識の端で彼の舌先だけを生々しく感じている。ざらりとした感触のそれが下唇を舐め、首筋へと落ちていく。  深まりゆく情交の予感に、僕は知らずシーツの上で足の指を丸めた。
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