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最終話 両片想いの結末
「声を聞かせろ、悧羽」
「んんっ、ゃだ、あぁっ」
音もなく伸びてきた手に、顔を隠す両手を剥がされる。直後、天井へ向けて飛び出したのは、努力で堰き止めていた悲鳴だった。
下腹部へと集まる熱にこっそりと膝を合わせ、僕は変化し始めた身体の中心を安西さんの目から隠した。
「若いな」
「あなたは、いくつなんですか」
「二十八」
気づかれないと思ったのは間違いだった。
布の上からそこに触れた安西さんの口元が、不敵な笑みを纏い出す。長い指に行き来されるたびに硬度を増してゆくのも、ボクサーパンツの内側が先走りの雫に濡れているのも、絶対に看破されているに違いない。
この人だから大丈夫、この人とこうなりたかった。内心でそう繰り返しても、羞恥に顔が赤くなるのは止められない。
「あ、灯りを消して下さい」
「なぜだ」
「……恥ずか、しい、から、で、す……」
語尾に向かうにつれ、声量が萎んでいくのが更に恥ずかしい。
なのに、目の前の人はそれを理解しようとはしないまま、僕の腰からジーパンと下着を一緒に引き抜いた。
「名前……呼んで、下さい」
いつの頃からか僕の心は彼に名を呼ばれるたびに幸福を感じ始めた。植物が光や水を求めるように、彼の声が欲しくて堪らなくなる。
「悧羽」
「あなたも、肌を、見せて……」
「確かに、欲張りだな」
シャツの中へと滑り込む僕の手を、彼は小さく笑って受け入れた。丁寧に脱がせ、鍛えられた肩から背へ、胸元へと掌を這わせてその感触とぬくもりを確かめる。
どこもかしこも男として完成された彼の肉体は、まるで高名な彫刻家が作り出した美しい彫像のようだ。白い照明の下、露わになった彼の昂りに僕は思わず息を飲んだ。
「力を抜いて深呼吸をしろ」
「……ふ……っ」
秘所に当てられた彼の先端は熱い。互いの身体を重ね合わせ、安西さんが僕の中へと進むにつれ、指とは比較にならないほどの異物感と圧迫感が押し寄せる。引き攣れるような痛みに僕は唇を噛み、声を堪えて彼の褐色の肩に爪を立て、言われたとおりに肺の奥深くへと空気を吸い込んだ。
「……くっ、さすがにキツい、か」
乱れ始める彼の呼吸、額に浮かぶ汗。その理由が僕だと思うと、嬉しさで胸がいっぱいになっていく。
「おまえが、文壇に現れる日を待っている」
「……そ、んな話、今は……ゃ、あぁっ」
何を答える余裕もない。
片足を抱え上げられ、確実に感じる場所を激しく攻め立てられる快楽に、僕は喘いだ。
耐えがたい快感は浮遊感に似て、安西さんに縋らねば正気を保っていられない。どちらの体温がどちらに影響しているのかなど、もう判然としない。
僕には安西さんが必要で、彼も僕を求めてくれている。ただそれだけが、ふたりを満たす真実だった。
「……こんな……知らな……っ」
「教えてやるよ、もっと」
「……うぁ、あ、あぁ……っ」
身体の奥を焼かれるような熱を感じ、僕は知らぬうちに安西さんを締めつける。
迸る鋭角的な嬌声は平素の自分の声とは全く違う音階を持ち、まるで部屋の空気を一瞬で切り裂く刃物みたいに響いていく。
前を握られ、後ろから最も感じる場所を突かれて前後不覚になった僕の爪が、安西さんの肩にひとすじの赤い曲線を描いた。
「好き……好きですっ」
「俺もだ、悧羽」
「……あぁっ……あ……っ!」
体温を分け合いながら、僕たちは繋いだ指を同時に強く握り締めた。
「あなたは、卑怯なんかじゃ、ない、です……よ……」
数日前の深夜。
三分の一ほど開いた客室の引き戸の奥に、僕は見た。
座卓に置いたノートパソコンへ真摯なまなざしを向け、物語を紡いでいる作家の姿を。
「悧羽?」
永遠に続くかと思われた指の動きは時折不意に止まり、後頭部を乱暴にかいては再びキーボードへ戻ってリズミカルな音を奏で出す。どこか苦しげだけれど、真率で幸福そうなその横顔を思い浮かべ、安寧に身を委ねて僕はそっと意識を手放した。
閉ざした引き戸の向こうに、ふと人の気配を感じた。ふたり分の話し声は安西さんと――。
「悧羽は?」
「よく眠っている」
「安西君も、お留守番ありがとう」
母が帰宅したらしい。婦人会は滞りなく終わったようだ。
「お茶でも飲む? お客無し、じいさん無し、息子無しと来たら、ビールかしら」
「……だな」
茶目っ気を含む母の口調に、安西さんの笑みを含んだ声が返る。
あなた方は僕と違って立派な大人ですからね、と少々拗ねつつ、僕はベッドの上で寝返りを打った。
「女将さん、隣は空き部屋か」
「ん? 元はあたしの部屋だったけど」
不意の問いに、母は首を傾げただろうか。
祖母の存命中、僕と母は母屋の中でも食堂に直結した廊下沿いの二部屋を寝室として使っていた。仕事上、都合がよいからだ。そして、祖父母の部屋はもう少し奥の静かな位置にあった。祖母の死後、母が奥の部屋へと移ったのは祖父の世話がしやすいからという理由によるものだ。
「ものは相談だが」
「うん? えぇえっ!?」
浮上しかけた僕の意識は再度睡魔に捕らえられ、その先を聞き取ることができなかった――。
「昔、大量の漫画で住宅の床が抜けたというニュースを観たことがありますが」
そんなことがウチで起こったら耐震工事どころの騒ぎではないと思ったのは、安西さんの荷物を見た瞬間だった。
八月の猛暑の夜に僕を抱いた彼は何を思ったのか数日後に民宿鳴実を去ってゆき、なんと、九月最初の週末にこの町へと移住を果たしたのだ。
その新居が――僕の寝室の隣、である。
「ウチは民宿です。アパート経営はしていません」
「女将さんとじいさんの許可は取ったし、家賃も払う。暇ならそこの箱を開けてくれ」
「全っ然、暇ではありません」
彼の引っ越しの荷物は家具も衣類もほとんどないのに、本だけが大量にある。仕事柄ゆえか否か、文豪と呼ばれる純文学作家の全集から最近のラノベまで、そのジャンルは多岐に渡っている。
「小説は書いているか」
「……おかげさまで」
口には出さないが、来春締め切りの新人賞への応募を目指してパソコンに向かう毎日だ。画面の前で日々逡巡し、ときに立ち止まることもあるけれど、執筆は素直に楽しく心弾む作業であると深く実感できることがとても嬉しい。
長く遠い道のりだろう。それでもきっと歩いていけると信じられるくらいの充足感が、今は僕の胸に溢れている。
「それは立派なことで」
満足そうに頷く安西さんの以前と変わらぬ笑顔には再会を喜んでいるような感慨はなく、ずっと一緒に暮らしていたように自然な雰囲気が漂っている。だから僕も気負わずに、手にしていたエプロンを肩から掛けた。
「夕食の準備をしてきます。食堂にいるので、何かありましたら声をかけてください」
「おかえり、とは言ってくれないのか」
「用があるならおまえが来い、と電話口で怒鳴られる担当さんが気の毒です。東京から結構遠いですよね、ここ」
退室しかけた瞬間に肩を掴まれたから、憎まれ口をひとつ利いてみた。返されたのは、相変わらずの苦笑と溜め息だ。
「いいんだよ。俺は悧羽に触発されて戦線復帰を果たしたんだ。おまえだって、尊敬する作家の俺と離れたくなくて泣いただろう?」
「自意識過剰ですね」
僕が泣いたのは作家、安西清臣と離れたくないからではない。初恋であると同時に最愛の、安西清忠を失いたくなかったからだ。
「激うまカツカレー、今夜食いたい」
「はい?」
「レモンシャーベットはもう終了か」
「販売期間は今月末までです」
「重畳。アレを食った瞬間に、悧羽に胃袋を掴まれた。今後一生、悧羽の料理を食い続けられる俺は幸せ者だ」
「わっ」
広い掌が今日も自由な速度で僕の頬を包み込む。けれど、この人の胃を支配できる僕の方が、実は何倍も幸せに違いない。
――本当の鳴実悧羽はどこにいる?
その声は今も、この身を巡るけれど。
「僕は、ここにいます」
答えはいつでもこの胸の内にあったのだと、自分は既に知っている。
「そうか」
憧れの、遥か高い場所にいる作家が細める双眸は酷く優しげだ。
「そういう奴だったな、悧羽は」
脆そうに見えて案外頑丈、と少し厚みのある唇が温かな声を聞かせてくれる。
「おかえりなさい、安西さん」
背伸びをして一瞬触れるだけのキスを贈り、僕はカレー鍋の待つ厨房へと踵を返した。
終
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