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2 ……揶揄われた?
「いらっしゃいませー、って、安西君か」
入口の引き戸に威勢のよい声をかけた母が、入ってきた人を見た途端に脱力した。
なぁんだ、と気安く言う顔を僕は厨房から睨んだ。
全国各地の宿泊施設同様、民宿鳴実にも昼食を出すという習慣がない。
再び食堂側へと戻ってきた安西さんはひとり旅ゆえに時間を持て余しているのか、先ほどと同じテーブルで氷水を前に至極冷静な目をして店内を眺めている。
正午を過ぎて、カウンターと座敷、テーブル、合計三十人分の席は、ほぼ埋まっていると言える状態だ。町内で大掛かりな工事でもしているのか、作業着姿の男性たちが大部分を占め、少数の老人が祖父の周囲に集まっている。
母はこまごまと動き回ってメモを取り、完成した料理を運んでゆく。厨房に立つ僕は次々に注文される料理を休む間もなく作り、母へと託す。一・五リットルボトルのスポーツドリンクをカップに移して飲むのが面倒になり、遂には冷蔵庫から取り出した五百ミリボトルを直接口に運ぶほどの忙しさだ。ふと、こちらに顔を向けて座った安西さんが僕を眺めている気配を感じた。視線が突き刺さって痛いけれど、やめてほしいと言う暇もない。
「安西君、ご注文は」
「激うまカツカレーを食ったばかりだ」
商売上手な女将の策略に乗せられぬよう、安西さんは予防線を張ったらしい。
僕の作ったカレーをさりげなく褒められ、母の頬が緩んだ。はにかむ笑顔が少女のように見えなくも ないが、二十歳をとうに過ぎた息子がいる女性だ。安西さんが微塵もときめかなかったであろうことは、確かめるまでもない。
「スイーツは別腹でしょ」
「俺はJKでもOLでもない」
テーブルの端に立てられた、夏季限定メニューは母の手書きだ。かき氷やアイスクリームが数種類、イラストつきで記されている。
「悧羽君特製のレモンシャーベットは美味しいよ? 食べなかったら後悔しちゃうかも」
母はめげなかった。わざとらしく作ったアニメ声で、デザートを薦めることに余念がない。
安西さんには、四十を過ぎたオバサンが何をやっているのだと追い払う権利は十分にあるけれど、世話になる宿の女将相手に空気を悪くしたくないという思いが先に立ったようだ。
組んでいた腕が解かれ、右手の人差し指が卓上のメニューへと向けられた。
「判った、判りましたよ! レモンシャーベットひとつ!」
「まいどあり〜」
母が上機嫌で厨房に現れたから、僕は差し出されたトレイにシャーベットの器をひとつ、半ば呆れ気分で載せてやった。とはいえ、春から準備していた商品に、間違いなく極上の一品だという自信があるのは本当のことだ。食べずに後悔どころか、追加注文をするお客さんが連日、後を絶たないことも、それを大いに裏付けてくれている。
カウンターから盗み見た安西さんは、やはり嬉しそうにスプーンを動かしていた。
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