2 ……揶揄われた?

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 怒涛のランチタイムが収束したのは、午後二時過ぎだ。僕と母も、ようやく昼食の席に着くことができた。  と思ったら、またガラスの引き戸が外側から開けられた。  顔を覗かせたのは、白いセーラー服姿の少女だ。元気いっぱいにポニーテールを揺らす彼女へ、いらっしゃい、と母が笑顔で手招きをした。 「こんにちは。今、忙しい?」 「ううん、一段落」 友人同士のように並んで座ったふたりを見て、僕は食べかけの冷やし中華もそのままに席を立つ。当然のようなその光景に安西さんが目を丸くしたが、厨房の主には休憩など有って無きが如しである。 「悧羽兄(りうにい)、イチゴミルクのかき氷お願い」 「了解」  短く答え、暖簾を潜って僕は厨房に入る。  常連客と昼食を摂った祖父は午睡のために自宅へと帰っていき、母は女子高生と話し込んでいる。老人や女性よりも体力のある僕が労働を期待され、最も多く仕事をこなすのは当たり前のことだ。安西さんの同情なんて、僕には微塵も必要ない。 「香純(かすみ)、今日で一学期終了だよね。成績はどうだった?」  練乳の煌めくかき氷をテーブルに置きながら問うと、彼女は、あはぁと曖昧な声とともに額をかいた。訊いてくれるなということか。幼少期から勉強をみてやっている隣家の少女は、教え甲斐のない生徒だ。僕は誰にもバレぬよう、努めて小さく嘆息した。 「夏休みは嬉しい反面、大量の宿題が難点だよねぇ……悧羽兄」  香純の意味深なまなざしが僕へ向く。手伝ってほしいという、無言のおねだりだ。 「自力で頑張りなさい。僕は店と宿で精一杯だから」 「えぇ〜っ」 「夏は民宿の繁忙期。知ってるだろ」  香純が不満そうな叫びを上げても、とりあえずは無視だ。  甘やかすのは本人のためにならないばかりか、僕の負担まで増大する。 「悧羽兄ぃぃ」  情けない声を聞き流しつつ、僕は食事を再開した。食べられるときに食べておかねば、タイミングを逃したまま夕刻になってしまうということも多々ある商売だ。 「おまえ、こいつのこと嫌いじゃないだろ」  不意に、僕らのテーブルへ低音の問いが投げ込まれた。  通路を挟んで数歩の距離に座っているのは、安西さんだ。 「僕ですか」 「あぁ。おまえはそのJKと話すときだけ、他の客相手のときよりも柔らかい表情をする。呼吸も(らく)そうだ」 「そうですか。そんなことを言われたのは初めてです」  平静を装いつつも、鋭い指摘に驚いた。  隣家の娘である香純は、生まれたその日から僕ら一家と家族ぐるみの付き合いをしているのだ。僕がどれだけ人見知りでも、妹同然の彼女相手に緊張しないのは当然だった。 「無自覚なのか。仕方のない奴だ」  僕の答えをどう受け取ったのか、安西さんは卓上に頬杖をつき、窓の外へと視線を流した。 「あれ? 悧羽兄、この人って」  僕らの会話が終わると同時に、声を上げたのは香純だ。まるで初めて安西さんの存在に気づいたかのようにスプーンを銜えたまま首を傾げて彼を見つめ、まばたきを数回した。 「あっ、お客さん? お客さんだぁっ」  店じゅうに響く頓狂な声が、安西さんを直撃した。 「ちょ、ちょっとっ」  彼に向けた香純の人差し指を、母が慌てて叩き落とす。振り向きざまに、ごめんねぇ、と言う母の声には微妙な笑みが含まれているようだ。瞠目する香純に、対する安西さんは探るような目を向けていた。 「客がそんなに珍しいのか」 「この辺りでは見かけない、素敵なお洋服の方だなぁと思いまして。ごめんなさい」  てへ、と香純は舌を出した。無邪気さは彼女の長所だが、視点を変えると不躾と言えなくもないのが痛いところだ。けれど、刺激の少ない静かな町で平穏という名の退屈な日々を送る少女にとって、迷彩柄を纏う長身の男性は確かに珍しいものに違いないのだろう。 「JK、若造狙いだろ」  安西さんの無骨な人差し指が向いたのは、僕の顔だ。途端に香純の頬が赤くなった。 「はわっ。ななな、何をおっしゃって」 「図星か」 「わぁっ」  ささやかに揶揄(からか)ったのであろう安西さんに、香純は両手で頭を抱えて全身を左右に揺らすという大袈裟な反応を返した。母はなぜか複雑な表情をして片手で額を押さえているが、それがどんな意味を持つのか僕にはうまく理解ができない。 「おまえはどうなんだ」 「……え」  面白そうに流し目で問われても、僕は香純を恋愛感情で見たことなど一度もない。が、目を輝かせて答えを待っている本人を前にして、それを言ってしまうわけにはいかないことくらいは判っているつもりだ。香純に、というよりも、僕は誰にも恋心を抱いたことがない。それはきっと、自分の手にはおえない感情なのだろうと常々思う。 「お茶をいれますね」  苦手な話題を断ち切って厨房へと歩きつつ、僕は呼吸を整えることに苦労した。安西さんに、うまく逃げたと思われただろうか。香純は特に気にしている様子もなく、美味しそうにかき氷を食べている。 「あ、電話?」  香純が誰にともなく呟いた瞬間、僕も店内に響き渡った耳慣れぬ着信音に気がついた。僕とは母の音とは違うから、香純のでなければ安西さんの電話で決定だ。が、彼は鳴り続けるスマホを一瞥しただけで、応じようとはしなかった。 「無視?」  不思議そうに、香純が訊いた。 「あぁ、今はいい」 「彼女? 放置プレイだ」 「アホか」  吐き捨てて立ち上がる長身の安西さんを、母と香純が呆然と見上げる。彼のスニーカーが向いたのは、僕のいる厨房だ。 「水。氷増量で」  カウンター越しにジョッキが差し出されるのを、僕はペットボトルに唇を触れさせたままで見た。受け取って氷を入れ、ミネラルウオーターを無言で注ぐ。両手へ突き刺さる視線に居心地の悪さを感じ、整えたばかりの呼吸がまた乱れるような感覚に陥った。 「あまり見ないでください」 「(おとこ)に見られて何を緊張することがある?」 「はい?」  意味が判らない。相手が誰であろうと、自分の所作を凝視されることを僕は好まない。 「お待たせいたしました」  重くなったジョッキを落とさぬよう、両手に力を込めた。  客に水を出すだけなのに、僕は自分でも嫌になるくらいに挙動不審だ。彼の双眸に、なぜか調子を狂わされる。 「あぁ」  彼は頷き、素直にジョッキを受け取った。  突然ふらりと現れ、民宿に宿泊することになった正体不明の男性。母に滞在を勧められたのは幸いだ。そうでなければ、どうするつもりだったのだろう。  自分の薄い手とは違う、くっきりと血管と骨の浮いた男らしい彼の手の甲を、僕は厨房からぼんやりと眺めた。自分の手もあんなふうだったら、己の不甲斐なさを少しでも払拭することができたのだろうかと考えかけ──やめた。
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