3 湖面の瞳

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3 湖面の瞳

悧羽(りう)ちゃーん!」  車を降りるなり、愛未(あいみ)ちゃんが僕へと駆け寄ってきた。小さな身体で、ぶつかるように抱きついてくるのは毎年のことだ。僕は数歩よろけつつ、昨年よりも成長した彼女を受け止める。 「愛未、三年生になったよ。悧羽ちゃんは」 「僕は二十三歳です。冬には二十四歳になりますよ」  愛未ちゃん一家は海のない街に住んでいるそうで、毎年ここでの海水浴を楽しみにしてくれている。チェックインは午後三時からだが、渋滞に巻き込まれたのか時刻はもう夕食に近い。愛未ちゃんは旅の疲れも見せずに、駐車スペースの乗用車を振り返る。両親が大きなバッグを手にしたまま会釈をするから、僕も同時に頭を下げた。 「お待ちしておりました、真山(まやま)様。お荷物お持ちします」  真山さんは数少ない常連客だ。もう五年くらいは通ってくれているだろうか。ご夫婦と娘さんの三人家族。僕は大学時代だけ東京に住んでいたけれど、夏には民宿を手伝うために帰郷していたから愛未ちゃんとは毎年会って、そのたびに大きくなっている彼女に驚かされる。 「悧羽ちゃんのごはん、楽しみ」 「メインはお刺身ですよ」 「やったぁ!」  天真爛漫な愛未ちゃんの笑顔に、香純も小さいころはこんなふうだったと思い出しながら二階の和室へと案内をする。  今夜の宿の夕食は安西さん、真山さん、既にチェックインしている岡野さん、僕ら家族の分だ。岡野さんは初めてのお客さん。常連になってもらえるよう、誠心誠意お持て成しをしなくては。  宿泊客の食事は朝晩とも部屋食だ。僕はそれらの料理を食堂で作り、夜だけは配膳を母に任せてそのまま食堂で接客と調理を続けなくてはならない。商売繁盛はありがたいことだが、常に人手不足なのだから大変だ。 「だから!」  扉越しに客室の内側から鋭い声が聞こえ、僕は真山さんの部屋から厨房へと戻る廊下で思わず足を止めた。苛立ちが多分に含まれた怒声は、安西(あんざい)さんの部屋の中から響いてきたものだ。 「当分の間はここにいる。絶対に帰らない。顔を合わせて打ち合わせたけりゃ、おまえが来い!」  仕事の話だろうか。随分と乱暴な口調だ。そういえば、彼に記入してもらった宿帳の職業欄は空白のままだった。  通話を一方的に断ち切ったのか、それきりどんな声も聞こえなくなった。けれど、僕の足は意に反して動かない。安西さんが出てきたら立ち聞きを疑われてしまいかねない状況だ。宿の従業員はお客さんのプライベートを詮索してはいけない。だが、動け、と足に命じたそのときには、目前の引き戸は内側から勢い良く開け放たれてしまっていた。 「あ?」  僕がいることなど、微塵も想像していなかったのだろう。  安西さんは高位置からこちらを見下ろし、剣呑な一音を小さく発した。 「用があるなら開ければいいだろが」 「と、通りすがりです」  電話中だったようなので、という言葉を僕は努力で体内に押しとどめた。 「おまえ、誰に対してもそうなのか」 「え?」  冷然と注がれた言葉の意味を、瞬時に理解することは不可能だった。僕が誰に、どうだというのだろう。  彼の意図するものが読み取れず、返す言葉を見つけられないまま僕は立ち尽くした。 「俺の目を見ろ」 「!」  骨ばった大きな手に顎を持ち上げられ、強引に上を向かされた。逸らすことを許されない視線の先にあるのは、冷徹な双眸だ。頑強な光を湛えるそれに僕は一瞬、青く揺らめく炎を見る。勝手なイメージに違いないのだろうが、彼の瞳はそれほどの光彩を放って僕を射竦めた。 「おまえはあらゆるものから目を背け、本心を偽っている」 「な、何ですかそれ。僕は別にっ」 「誰の目も見ないばかりか、自分自身の心さえ直視することを怖れている」 「やめてくださいっ」  意識せずに右腕が動いた。ぱしっ、と鳴った音で我にかえり、自分が安西さんの手を振り払ったのだと理解する。軽く痺れる右手に、否応なしに最悪な現実を突きつけられた。 「す、すみませ……っ」  お客さんに手を上げるなんて、と慌てて頭を下げた僕に、安西さんは溜め息だけを返してきた。 「……いい」  絞り出すような低い声音を残して廊下を浴室方面へと進んでいく彼の、精悍な顔にはどんな感情も浮かんではいない。 「何をやっているんだ、僕は……」  安西さんの体温を流すように、厨房へ戻ってシンクで顔を洗った。屈強な年上の男の力強い指は、有無を言わせずに僕を捉えた。背すじが震えたのは恐怖のせい、それとも他の何かだろうか。 「あぁもう、仕事仕事」  冷蔵庫を開けながら、ここに隠れてしまいたいと思う自分が情けない。幼少期、本当に入ろうとしたことが一度だけあった。真夏の夕刻、単純に涼を求めてのことだ。子供らしい好奇心もあっただろう。だが、通りかかった祖父は渾身の力で僕を引きずり出すと、激しく怒鳴った。冷蔵庫は内側から開くようにはできていない、入ったら出られずに死ぬぞ、と叱られ、小さな僕は祖父の剣幕と死の恐怖に怯え、母に縋って泣いたのだった。 「誰の目も見ない、か」 冷蔵庫の閉じる音が、耳の奥で安西さんの声に変わった。  見てしまったら、知りたくないことまで見えてしまう。たぶん、僕はそれが嫌なのだ。  僕に対する香純(かすみ)の恋心。早く身を固めて正式に民宿を継いでほしいという祖父の願いや、母子家庭で申し訳ないと思う母の罪悪感まで。  気づかぬふりがどれほど卑怯かは、嫌というほど知っている。けれど、僕はそれらを背負えるほど強くはない。 「言われなくても判ってる……」  噛みしめた奥歯が、ぎり、と鳴った。
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