89人が本棚に入れています
本棚に追加
「岡野さんは明日お帰り、真山さんは来週。明日の予約は二件、明後日は……」
深夜の食堂には、僕の叩く電卓の音だけがかたかたと響いている。
各種請求書、領収書、水光熱費や細かなレシート。宿帳と帳簿をひと睨みし、僕は浅く目を閉じた。この民宿は、あとどのくらい続くだろう。祖父にはもう労働は無理だ。母と僕だけでは手が足りない。建物も老朽化しているが、建て直す資金などあろうはずがない。
「手詰まり、か」
広げた両手に目を落としても、そこには一ミリの展望も見えない。安西さんの掌とは全く違う、薄くて柔らかな子供っぽい手だ。何かを掴むことも守ることも、できる自信がない。
視界の中央に、いつも彼が座っているテーブルが映る。彼はなぜ、滞在期間を明確に決めていないのだろう。長く宿泊してもらえれば民宿としてはありがたいのだが、彼がここへ来た目的やこの先の予定は不明だ。明日いきなりチェックアウトを言い出されても、僕らには黙って受け入れるしかできることはない。
「?」
停滞した空気の底でテーブルに頬杖をついた瞬間、開けたままにしていた廊下側の引き戸をノックする音に耳を打たれた。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
カーゴパンツにタンクトップという軽装で、僕の前に座ったのは安西さんだ。湯上がりなのか、しっとりと濡れた髪からは浴室備えつけのシャンプーの香りが漂ってくる。
「飲み物を貰えるか」
「はい。何にしますか」
静寂に、彼の低い声はよく通る。適度な筋肉を纏う肩や腕に吸い寄せられそうになる視線を努力で引き戻し、僕はテーブルの隅に立つドリンクのメニューへ手を伸ばしたが、安西さんが目を向けたのは帳簿の横に置いた僕のグラスの方だった。
「麦茶」
短く言って窓の外へと視線を流す彼の態度は、夕刻の一件などなかったかのように自然だ。思い出してしまうのは僕だけで、彼にとっては取るに足らないことだったのだろうか。
居心地の悪い気分を強いられ、苛立ちのせいで冷蔵庫を閉める手に無駄な力がこもった。
「暑くないですか。エアコンをつけますか」
自分のためだけに回していた扇風機を彼へと向けながら訊いたが、彼は首を左右に振っただけだった。否、という意思表示だ。
「生ビールと枝豆が欲しい季節だが、メニューに入っていないのは老人への気遣いか」
「宿泊のお客様には、夜に限って提供できます。祖父の知人などに出さないのは、居酒屋と勘違いされないための苦肉の策なので」
「ははっ、居酒屋っ」
確かに、と呟く安西さんは、近辺にそれがないのを知っているみたいだ。娯楽の少ない田舎の町では、高齢者も女子高生も退屈を募らせている。
「……なぁ」
口元の苦笑を潜めつつ麦茶の入ったグラスを受け取り、刹那、安西さんは妙に真剣な瞳で僕を見た。直前の微妙な間が、姓と名のどちらを呼ぶべきかと迷ったように思える。どくっ、とシャツの下で一度だけ鼓動が高鳴るのを僕は感じた。自分はどちらで呼ばれたいのだろうなんて、莫迦な考えだ。
「当分の間、ここに滞在してもいいか。心配しなくても、カネはある」
「え? はい、ありがとうございます。人手不足で、大したお持て成しはできませんが」
拍子抜けした。もっと深刻な何かを言われるのだろうと予想していた心から一気に緊張が抜け、僕は椅子の背凭れへと身体を預けた。
「持て成しには何の問題もない。むしろ俺がおまえの仕事を手伝いたいくらいだ」
「なぜです?」
大きくなったら自分も民宿屋さんになる、と愛未ちゃんも昨年は言っていた。が、大の大人の安西さんが、小学生と同様の無邪気な好奇心で僕を手伝いたいなどと言うはずがない。案の定、内心で身構えながら次の言葉を待つ僕に、安西さんは口角を吊り上げて不穏に笑んだ。
「面白そうだから?」
「……!」
軽視されたのだと思った瞬間、無性に腹が立って卓上のコップを投げつけたい衝動に駆られた。この人は、ついさっきまで電卓を叩き、帳簿を睨んで溜め息をつく僕を見ていたはずだ。それなのに。
「近年、乱立するリゾートホテルに潰されてゆく同業者を、いくつも見てきました。うちも経営は年々苦しくなるばかりです」
端で見ているほど楽ではない。僕でさえ、ここを畳んで就職した方がいいかもしれないと思うほどだ。そして、それを口に出したが最後、祖父と母が僕の意向を尊重してしまうだろうことは想像に難くない。だから、言えない。ふたりが生涯をかけて守ってきたものを、未熟な僕の一時的な浅慮で壊してしまうわけにはいかないのだ。
「おまえが、だよ」
突如。
テーブルに身を乗り出した安西さんの人差し指が、僕の鼻先へと突きつけられた。
「本当に面白い」
「どういう意味……っ」
かたん、と椅子を鳴らして立ち上がる安西さんの手が、いつの間にか空になっていたグラスを持ち上げた。
僕の問いに答える気がないのか、厨房へ入ってシンクの前で盛大な水音を立てている。お客さんに洗い物をさせたことに僕が思い至ったのは、彼がそこから出てきた瞬間だった。
「悧羽」
「!」
正面から突風を受けたような錯覚が起こり、僕は数秒、呼吸を止めた。座っているのに立ち眩みみたいに頭が揺れて、恐怖を感じた右手が咄嗟にテーブルの縁を強く掴んだ。
あぁ。何という目をする人だろう。
射竦めるように僕を見つめる瞳に、早朝の湖面を彷彿とさせられる。とても怜悧で美しく、怖ろしいのに見返さずにはいられない。
だから、他者の目を見てしまうのは嫌だったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!